17-FPSS




第17回サイファイフォーラムFPSS



日時: 2026年7月11日(土)13:00~17:00

会場: 日仏会館 509会議室



東京都渋谷区恵比寿三丁目9番25号

会費: 一般 1,500円、学生 500円(飲み物は各自ご持参ください)

参加を希望される方は、以下まで連絡をいただければ幸いです

連絡先: 矢倉英隆(she.yakura@gmail.com)

よろしくお願いいたします



プログラム


(1)13:00-14:00 矢倉英隆

    シリーズ「科学と哲学」⑪ プラトン哲学と現代的課題

これまで5回に亘ってプラトン(427–347 BCE)の哲学と科学を見直してきましたが、最後に、それらが現代に投げかけている問題を拾い上げ、改めて西洋哲学の源流にあるといわれる知の在り方について考えることにいたしました。そうすることで、われわれの思考や認識の明晰さと深さがさらに向上することになるとすれば幸いです。


(2)14:00-15:20 林 洋輔

    文化のエグゼルシス:概念からPerforming Arts、そしてSportへ
   
フランス哲学の議論で時に掲出される術語「エグゼルシスExercice」(英:エクササイズExercise)は、邦訳の困難な語彙である。およそ「何らかの目的完遂を期して何事かを行う」といった大枠の実質は定まるものの、その精確な内包や外延は、いまなお研究者の抱える論題である。しかし、この「エグゼルシス」なる語彙を単に翻訳の問題として片づけることは早計である。というのも、フランス内外の有力な哲学者たち——本発表でも参照予定のPierre Hadot, Xavier Pavie, Stephen Gaukroger,そしてDenis Moreauなど——はこの「エグゼルシス」を哲学の問題にとどめるどころか、特定の文化活動を説明するための原理としても採用しているからである。本発表ではこの「エグゼルシス」の概念の実質を簡略に提示かつ検討することに始まり、この概念が人間の文化を適切に説明するうえでの原理としても機能することを提示して今後の発展的議論につなげたい。

議論の端緒には、Pierre Hadotが哲学観の一として自らの議論で継続して示したExercices Spirituels——我が国の哲学界では「精神の修練」と試訳がなされている——の議論を取り上げる。というのも、「エグゼルシス」の概念が哲学研究および文化研究で本格的な注目に値することを明確に示したのは、Hadotによる一連の議論だからである。本発表では語義の基礎や哲学史研究における議論を瞥見したのち、次の方向へ議論のかじを切る。すなわち、「身体文化」への着眼である。というのも日本語として定着した語彙「エクササイズ」は、一般に健康増進を目的とした軽運動として受容されているが、上記の経緯を踏まえるならば、身体運動の諸問題を哲学として捉え直す際にも「エグゼルシス」(エクササイズ)への着眼は有効だからである。

議論の中盤以降では上記のPierre Hadotに影響を受けたフランスの「スポーツ哲学 La philosophie du sport」の議論を検討し、次いでHadotの議論を英語圏で継続的に展開するDavidsonの議論を参照する。両者の議論はこれまで知性や想像力、感覚や意志といった知的活動に議論の射程が収まっていた「エグゼルシス」の議論を新たな段階に進ませる。すなわち、両者の議論は心身の全体を射程に据えた「生き方としての哲学Philosophy as a Way of Life」の根幹に位置づく概念として「エグゼルシス」を再定位する。発表者は両者の業績、そして自らの学術的成果をも加味して「エグゼルシス」を「尽力」と訳出し、その是非をめぐって参加者との討議に臨みたい。


(3)15:30-16:50 森 望

    生命との対話:二つのライフヒストリー  〜遺伝子・脳・言語・AI・音楽〜

私は若い時から「老化研究者」でしたが、すでに二度の定年を経て本物の「老化研究者」になりました。老化の研究者でもあり、老化した研究者でもあります。しかし、米国で科学研究を目指した最初のころは遺伝子の進化に興味がありました。地球上での生命の誕生、それについてはアミノ酸や核酸の生成やRNAワールドなどがよく議論されましたが、私自身は最初期の遺伝子は何か? リボソームのような高度に複雑なタンパク質合成装置などなかった時代の原始的な翻訳装置はどのようなものだったのか? 初期のエネルギー産生系はどうしてできたのか? など生命の初期進化の様相としての「遺伝子の創世記」(図1)について考えていました。


(図1)


今から思えば、すべて「空論」だったかもしれません。生命科学を志す人間としてみれば大変興味深い題材でしたが、実験的検証ができず「真理」が全くつかめないことを理解し、諦めました。実験的検証が可能な科学、いろいろな方向性がある中で、私は遺伝子を取り扱う技術を身につけ、分野としては神経科学の領域へ進むことに決めました。米国ロサンゼルスのシティー・オブ・ホープという小さな研究所からカリフォルニア工科大学(通称、カルテック)へ移籍し、その頃は科学研究の真髄に触れた気がしていました。その後、南カリフォルニア大学の老年学研究所で初めて自分の研究室をもち、その頃から本格的に「脳の老化研究」を進めてきました。帰国して、国立長寿医療研究センターの分子遺伝学研究部の立ち上げに関わり、その後、日本の西海岸の長崎大学で「寿命遺伝子」や「老化脳」の研究を進めました。「老い」をみつめ、「老い」を考え、そうするうちに自分自身も「老い」ていった、そんな「老いの遍歴」の中で我が人生を振り返っています。

ここではこうした背景をもとに、「いのちの歴史」「ライフヒストリー」を二つの視点でとらえてみようと思います。地球上で連綿と繋がってきた生き物の歴史としての「生命史」、それとひとつの命としての「人生」です。それには「進化」と「老い」が密接に関わってきます(図2)。老化脳研究はアルツハイマー病などの認知症の問題とも深く関係しますので、海馬を中心とした学習記憶や認知の研究にも関わりました。その中で霊長類進化の果てに高度な「知性をもったサル」となった人類の「脳」は、その知性ゆえに「悩む」ことにもなったと理解しました。「脳ありてこそ悩める」のです(図3)。


(図2)


(図3)


科学や学問の世界では「真理」の探究がその真髄にありますが、そのためには自分だけの深い思考だけでなく、他者との議論の中で考えを修正していくことが大切です。その原点には、すぐれた先人たちの「対話」がありました。ソクラテスやプラトンに限らず、ヒポクラテス、ルネ・デカルト、クロード・ベルナール、ルイ・パスツール、等々。私たちの思考は多くの優れた先人たちとの時代を超越した言語による語らいによって「深化」し「進化」します。

その「言語」を生み出したのは、まぎれもなく人類の脳ですが、それがいまや人類の外の脳ともいえる人工知能「AI」を産出しました。かつて、チャールズ・ダーウィンが進化における「自然選択」の考え方を提示しましたが、もはや、地球上であたかも「神を演ずる」かのような現代人の先に「自然淘汰」はなく、「生命なき生命」のようなAIロボットを生み出しつつあるのです。それにはさまざまな不安な問題を孕んでいることを危惧したりもしますが、一方でAIの恩恵は無限でもあります。正解かどうかはわかりませんが、過去の先人たちの知恵と「対話」するよりも、現状のAIと「対話」するほうが真理の理解への早道かもしれない、そんな時代になりつつあります。

矢倉先生の運営されるサイファイ研究所のホームページを拝見し、そこからさまざまな刺激と啓発を得ています。私には科学哲学の大部分は理解できませんが、生命進化や脳科学を中心にやってきた自分にとっては「自然と生命を考える」とか、「意識と幸福の三層構造」の項目は興味深く拝見しました。その後者の中で、矢倉先生の提示された「意識の三層構造」「幸福の三層構造」について自分なりに咀嚼して「幸せの構図」という歌を作りました。歌詞はchat-gptとの「対話」の中で洗練させて、その後、音楽生成AIのSUNOで作曲させています。AIはすぐれものですが、すべてがいいわけではありません。自分の感性に照らしてベストに近いものを選別し、それを納得できる形に修正していきます。そうしてできた一曲がこれです。聴いてみてください。

「幸せの構図」


作詞:森望 + chat-gpt、作曲:SUNO-AI、楽曲作成:nozomumori
Made by Morison Music

この講演では上述の「二つのライフヒストリー」を中心に生命科学の世界と「対話」しつつ、SUNO-AIとの共同作業として生み出した「AI共奏音楽」を数曲流しながら、「科学サロン」に「音楽喫茶」の雰囲気を入れ込みながら、「生命との対話」を論じてみたいと思います。

 


会のまとめ



今回は、お暑い中、またお忙しい中、1名の欠席はあったものの13名の方の参加を得て、深い議論に入ることができた。また、将来につながる発見もあったのではないかと想像している。改めて参加された皆様に謝意を表したい。それでは早速、3つの発表の内容に入りたい。

(1)矢倉英隆:シリーズ「科学と哲学」⑪ プラトン哲学と現代的課題(発表スライド

このシリーズでプラトン(c. 427–c. 347 BCE)を取り上げるのは今回で6回目になり、今回が最終回でもある。ということで、プラトン哲学のエッセンスでもあるイデア界と現象界という二元論的世界観と現代が抱える問題との関係を考えてみることにした。この視点は、「科学と哲学」シリーズの目的でもある、科学史・哲学史を振り返ることにより、「新しい知の在り方」を探るという営みと重なるところがある。なぜなら、現代的課題の根源には、どのような「知の在り方」が望ましいのかという倫理的――どのような価値を評価して生きるのかというマルセル・コンシュ(1922–2022)がいう意味における倫理――問題があると見ているからである。
 
プラトンは、知覚によって知ることができる現象界と、理性によってしか把握できないイデア界があると考え、後期対話篇『ティマイオス』では、前者を「常に生成し、在るということがないもの」、後者を「常に在る、生成しないもの」と表現した。つまり、現象界に留まる限り、真理(イデア)には到達できないとした。このプラトン的世界観によると、日常生活(現象界)の中で忙しくしていると、真理・本質は見えてこない。逆にいえば、真理・本質に至る必要条件は現象界から離れること、その上で、真理・本質の存在を想定することから始まるのではないだろうか。このことは、現象界を対象にする科学は真理・本質に達し得ないことを示唆している。

このような基本的な理解の上で、プラトンを視野に入れながら現代の状況をどのように見るのかについて考えてみたい。認識を共有できそうなところを挙げれば、次のようになるだろうか。

1)現代科学の主流は、観測可能、測定可能、予測可能、再現可能な現象に焦点を絞るため、現象界に意識が集中している。そのため「本質」、「存在」、「絶対的真理」などは、多くの科学者の思考から退けられている。その意味では、プラトン的営みが弱体化しているのではないか。

2)現在の科学技術(特に、ビッグデータ、生成AI、生物学における網羅的解析など)は、まさに「現象の相関関係」を徹底的に洗い出す営みで、本質的な問いは脇に置かれ、現象の予測と制御だけが肥大化している。そこでは、「本質」や「意味」など、プラトン流にいえば 「善のイデア」の検証が蔑ろにされているのではないか。

3)このような状況の背後には、「絶対的真理」という旗印がもたらした暴力や抑圧(宗教戦争、全体主義、植民地主義、異端排除など)に対する反省があった。特に、20世紀以降、絶対的真理は解体され、多様な価値観(相対主義)や、検証可能な部分だけを扱おうとする実証主義が優勢になった。このような歴史を背景にすると、イデア界の否定は自然な流れであり、多様性と自由を守るための戦略でもあったともいえるだろう。

現在の流れは確かに科学の進歩をもたらしたが、そこには問題を見ることもできる。例えば、以下のようなことが挙げられる。

1)絶対的真理の否定は、真理そのものへの無関心を生んでおり、極端な相対主義が増殖している。
2)知の断片化と専門化が進み知識は増えたが、全体像は見失われ、意味が語られなくなっている。
3)事実と価値が乖離している。
4)絶対や神が弱体化したため人間中心となり、自然を対象化するようになっている。

これらの問題点を読んでみると、現代の状況はこれらを問題としない考え方、さらにいえば問題とされている考え方を積極的に取るという立場が優勢になっていると換言することもできる。ここでは、これらを現代の問題であるとする観点から、わたしなりに考えた応答について紹介した。

それは、これまで「科学の形而上学化」(MOS)といってきたもので、科学が生み出す成果(事実)に留まることなく、それをもとに哲学的な思索をすることにより、意味や価値を含むより高い、より抽象的なところにあると考えている真理に向かおうとするものである。これは相対主義を斥け、真理を取り戻そうとする試みでもある。ここでいう形而上学的真理は、アプリオリに措定されるものではなく、あくまでも科学的探究の後の哲学的抽象化によるアポステリオリなもので、そこに向けて漸近的に接近していく原理として捉えている。

具体的には、以下のようなステップでMOSを実行することを考えている。
1)科学の抽象化(Scientific abstraction):研究すべき対象について科学が明らかにした事実をできるだけ広く集め、その全体に共通する重要なものを本質的要素として抽出する。
2)哲学的省察(Philosophical reflection):哲学、歴史、神学などの幅広い知を動員して、科学知から抽出された内容について省察し、形而上学的な知に昇華した上で、その成果を新たな言葉で表現することに努める。
3)普及(Dissemination):このような試みの重要性とそこから明らかになった具体的な成果について、科学者を超えて広く伝える。

現代の問題に立ち向かうところで重要になるのが哲学的省察のステップだが、これは科学の中ではむしろ避けるべき方向性だとされる。そのため、それに対抗する意思が求められるのである。今から9年前、フランスに渡って10年目に当たる2017年に絶対的真理に向かうための方法論を模索したことがあり、雑誌『医学のあゆみ』(253:551–555, 2017)にエッセイとして発表した。その中にあった図を今回改変したものが、下図である。





この図からも分かるように、MOSが目指している真理は、プラトンのイデアのように超越的なものではなく、むしろアリストテレス(384–322 BCE)の個物に内在する形相としてのエイドスに近いのかもしれない。このように、より純度の高い、より抽象度の高い真理を追究した先に、超越的な真理が見えてくるのではないかと想像している。そこに向かうのが人間であることを考えれば、プラトンのいう絶対的真理にどこまで近づくことができるのかという問題になるのだろう。

今回のフォーラムでは、最後に必要とされている “intuitive leap”(直観的飛躍)とはどういうものかについて質問が出された(本ページのコメント欄参照)。この点については上述のエッセイでも少し触れているが、改めて考えた内容を以下のブログ記事にまとめたので、参照していただければ幸いである。
intuitive leap 再考(2026年7月13日)
やはりこの図を見て気づいたこととして、興味深いエピソードが紹介された。それは、数学者の広中平祐(1931–2026)と岡潔(1901–1978)のあいだで交わされた方法論の違いに関するものであった。弘中が、問題解決のためには(これは特異点解消の問題であった)、理想的な問題は非常に難しいので、より具体的で解きやすい問題へ下りていくという戦略が必要だとしたのに対し、岡は、そんな方法では問題は解けませんと返したという。そして、問題というものは逆で、具体的な問題からどんどん抽象していき、最も理想的な形にすることが大切であり、問題が理想的な姿になれば、自然に解けるはずだと続けたという。そして、そのやり方で弘中は問題を解決したのであった。岡の方法論はMOSと非常に近いので、印象に残るエピソードとなった。

この後、MOSの試みが哲学史の中でどのような位置にあるのかを検討した結果が紹介された。MOSは、本質あるいは真理(アリストテレスのエイドスのようなもの?)を求めることを目指している。この関連で哲学の歴史を見ると、本質・真理を探究する流れ(本質主義、形而上学重視)と、それに対抗する反本質主義・反形而上学の流れがある。歴史を遡れば、本質主義の源にはソクラテス(c. 470–399 BCE)、プラトン、アリストテレスがいる。プラトンの本質は超越界にあるイデアであり、アリストテレスの場合には個物に内在するエイドスが本質とされる。

科学は、動きの中にある現象界を対象とした知の探究をしているので、プラトンのいうイデアには到達できないと考えられるが、イギリスのR・G・コリングウッド(1889–1943)は次のような指摘をしている。
自然の世界は常に変化しているので、決定的な性格を持たず、厳密にいえば、認識も理解もできない。しかし、その中に叡智的なもの、形相を求めることに異議はないだろう。事実を単に観察、分類するだけでなく、そこにある形相的要素を発見することを使命とする自然科学をプラトンは擁護している。
中期対話篇の『国家』では、イデアと現象界とのつながりがよく見えないので、現象界を相手にしていては本質にはたどり着けないと考えても致し方ない。しかし、後期の『ティマイオス』になると、現象界に存在する個物とイデア界の仲介者としてデミウルゴスを登場させているので、現象界からイデア界への通路が見えてくる。その通路を上って真理の発見を目指すプラトンの自然科学、それは形而上学化された科学(MOS)とも通じるところがある。

歴史を下り17世紀の科学革命を迎えると、アリストテレス的世界観(たとえば、目的があり、本質がある)は崩壊し、法則・数学・実験が重視されるようになる。さらに19~20世紀に入ると、実証主義論理実証主義が力を増し、形而上学は排除の対象となる。しかし、20世紀後半~21世紀になると、ソール・クリプキ(1940–2022)、ヒラリー・パトナム(1926–2016)により本質主義が復活、科学的本質主義と呼ばれるようになる。

これは、水、金、虎、電子などの「自然種」(natural kinds)には本質が存在するが、本質は古代のようにアプリオリではなく、科学(物理学・化学・生物学など)によりアポステリオリにしか知りえないとする立場である。このように科学的本質主義は、主に分析哲学・科学哲学の観点から自然種や自然法則の本質を明らかにしようとする(科学の中に留まる)傾向が強いのに対し、MOSは科学が把握した本質を手掛かりに、存在そのものや全体としての自然についての形而上学的理解へと大胆に踏み込もうする点で特徴がある。

これとは別に、20世紀後半には言語論的転回や解釈学、ネオプラグマティズムなどに見られる反本質主義の流れがある。ネオプラグマティズムに属するリチャード・ローティ(1931–2007)は、哲学者が世界を特権的に表象し、その究極的真理を把握できるという考えを批判した。むしろ哲学を文学的、創造的営みの一つと捉え、新たな語彙によって世界を再記述すること(redescription)こそが哲学の役割であるとした。

MOSは、このように哲学を専門家だけの営みから解放し、新たな語彙によって世界を再記述するというローティの発想を評価する。しかし同時に、その再記述は恣意的な言語操作ではなく、科学によって明らかになった自然の構造や性質から本質を抽出し、それを人間の世界理解へと開く営みであるべきだと考える。このような立場から、MOSは科学の成果を基盤とした新たな形而上学の構築を目指すものであり、それが現代世界の根底にある問題に対する一つの応答となることを願っている。







(2)林洋輔:文化のエグゼルシス:概念からPerforming Arts、そしてSportへ(発表スライド

本発表のテーマは、西洋哲学の歴史に通底する一つの重要な実践概念であるとされることもある " Exercices spirituels "(以下、ESと略す。英 Spiritual exercises) をめぐって、多方面から考察を展開することであった。

まず、この言葉の日本語訳の問題が取り上げられた。現在のところ、定訳はないものの、「精神の修練」と訳されることが多いという。しかし演者は、この言葉ではES の全体を捉えられていないのではないかと考え、検討を進めることになる。16世紀にイエズス会創始者の一人であるイグナチオ・デ・ロヨラ(1491–1556)が Exercitia spiritualia という本を書いているが、これは門脇佳吉(1926–2017)によって霊操』と訳されている。ただ、この訳語は主にキリスト教の文脈で語られることが多く、一般には膾炙していない。「生き方としての哲学」(Philosophie comme manière de vivre ; Philosophy as a Way of Life)を唱えた現代フランスの哲学史家ピエール・アドー(1922–2010)は、ESという概念で哲学史全体を見ることができないかを研究した。

アドーは、セネカ(c. 1 BCE–65 CE)を引用して(発表スライド参照)、哲学とは生き方の指針であり人生における指導役であるとし、エピクロス(341–270 BCE)を引用して発表スライド参照、哲学は生き方の心構えを授け、倫理に関する原理原則の実行や幸福の追求に関わるものであるとした。その上で、哲学は常に実践されなければならない世界における存在の在り様であり、生全体を変容に導くものであり、「生き方としての哲学」の中核にESを据えたのである。

ここで、ESと身体の関係が論じられた。アドーは、哲学的修練(精神的鍛錬)という概念は、体育的理想とギムナシオンに特有の身体文化の実践に根源を持つとし、哲学者の魂の強さは、哲学的鍛錬によると書いている。アドーのESは精神に重点は置かれているが、身体の運動と同根のものとして考えられている。そして、心身両方の鍛錬により、自由で、強い、独立した真の人格が形成されるとした(2004)。つまり、現代人は、精神的修練というと内面的思考・瞑想・自己省察などと結びつけて考えがちだが、そこには身体的要素が関係しているという指摘である。

フランスのグザヴィエ・パヴィ(Xavier Pavie, 1973)もまた、古代における身体的実践は精神的修練や自己の改善・変容への意志と無関係ではないとし、デカルト1596–1650)以降の心身二元論の流れを批判している。パヴィは、アドーの「哲学は精神的修練である」という考えをさらに進めて、「精神的修練や生き方の変容は、身体的実践を通じて起こる」と考えた。また、アメリカのリチャード・シュスターマン(1949)は、アドーのES理解には、なおプラトン的な精神中心主義の側面が残されており、身体的次元somatic dimensionが十分に強調されていないことを批判している。すなわち、精神性にも身体的次元があり、身体は単に克服すべき障害ではなく、自己形成が実践される媒体である。この考えは、彼の中心概念である「身体感性論」(somaesthetics)につながるものである。

これらの議論は、哲学とは生き方の変容、すなわち魂(精神)の変容であり、その変容は精神だけに閉じたものではなく、身体を含む人間存在全体において生起するものという認識に導いてくれる。これは前発表のまとめで紹介した「intuitive leap 再考」において示した、身体的経験が直観的認識と結びついたように見える出来事とも符合するものであり、免疫に関するMOSの考察から浮かび上がった、精神と身体の不可分な関係という視点からもこの理解は支持される(拙著『免疫から哲学としての科学へ』参照)。

次に、ESと進歩の関係が取り上げられた。アドーにとって哲学とは、知恵に到達するための生き方であり、精神的進歩の方法であった。それは、自己を変容させ、自己をより高次の普遍的な視座へと到達させるための実践だったのである。アメリカのアーノルド・デイヴィドソン(1955–)は、知恵に向かうESとしての哲学はスタンリー・カヴェル(1926–2018)の言う道徳的完璧主義(moral perfectionism)の一形態であり、一つの生き方、自己を乗り越える実践であるとした。具体的には、「未達成だが到達可能なより良い自己(unattained but attainable self)」 に向かって不断に自己を向上させていく姿勢で、「次の自己」(next self)へ移行するプロセスとして描かれている。マルセル・コンシュは倫理と道徳を厳密に分け、相手の人権を認め、困難にある時には助けなければならないとする絶対的な道徳と、それを満たした上で自らの生き方の選択をするのが倫理であるとした。倫理と道徳の間に差がないとする立場に立てば特に問題にはならないかもしれないが、コンシュの分類に従えば、ここで言われている完璧主義は、「倫理的完璧主義」と言った方がよいのかもしれない。






ここで、moral perfectionismとパフォーミング・アーツとの関連が話題に上った。デイヴィドソンが注目したのはジャズ演奏におけるインプロヴィゼーションで、その中にESに通じる哲学的活動を見たようである。具体的には、サックス奏者のソニー・ロリンズ(1930–2026)の思想と実践で、それは常に自分を超える、達成不可能な "next self" を探すことが義務であり、自分との戦を制することこそが問題であるという言葉に表れている。デイヴィドソンによれば、この営みは単に自己の一部を超えることではなく、全く新しい自己を創造することなのである。ロリンズは、そのために休むことなく練習を続けてきたという。さらに最近、スポーツをESの視点から哲学的に見直そうとする動きもあるという。具体的には、歩行(散策)と哲学、サイクルスポーツの哲学的解析、体操と文明の関係(プラトンの『法律』には詳細な記述がある)などがテーマになっている。なお、moral perfectionismについては、コメント欄でも検討されている。

最後に、これまでの省察を背景に、改めてESをどのような日本語に置き換えることができるのかが検討された。Exercice という語は、語源的には、反復によって自己を形成するという意味が含まれている。ガフィオではラテン語 exercitium に「訓練、反省、瞑想(exercice, réflexion, méditation)」という意味が与えられ、リトレで は「誰かをある事柄へと訓練すること、あるいは自らをそのように形成すること」と定義されている。またパヴィは、この概念が仕事、訓練、反復、学習という意味を含むことを指摘している。すなわち、単なる運動や練習ではなく、魂や精神を形成して自己変容し、それがよりよく生きることにつながるという流れになる。ただし、よりよく生きるための知恵に最終的に辿り着くことはないということは織り込み済みである。

このように、回心と変容を経て幸福な生に至るために力を尽くすことが、ESの中身ではないかとの考えに至り、日本語の「尽力」が浮かんできたという。ただ、この言葉が与える印象は、自分に対してよりは他者のために力を尽くすという含みが強いようにも見える。同様の指摘もあり、新たな提案もあった。現在のところ、ESを「心身の尽力」と訳したいとのことであったが、まだ紆余曲折がありそうな感触を持った。今後の展開を見守りたい。






(3)森 望:生命との対話:二つのライフヒストリー 〜遺伝子・脳・言語・AI・音楽〜(発表スライド

本発表はタイトルにある通り、広範な領域を跨ぐものであると同時に、長い生命の歴史と個人の人生を振り返るものであった。特徴的だったのは、それらが自作の音楽作品として提示されたことで、わたし自身も驚く瞬間があった。ここでは、それらの作品(全作品リストはこちらから)を紹介しながら発表内容を振り返り、そこから触発されたことについてもまとめてみたい。

最初に本発表がカバーする領域を展望するような壮大なスケールの歌「生命の螺旋」が紹介された。





生命を分子レベルで理解する道を開いた生命科学史上の画期的な出来事として、1953年のジェームズ・ワトソン(1928–2025)とフランシス・クリック(1916–2004)によるDNA二重らせん構造の提唱、そして1960年代のマーシャル・ニーレンバーグ(1927–2010)やハー・ゴビンド・コラナ(1922–2011)らによる遺伝暗号(genetic code)の解読が挙げられる。当初、これらの成果によって生命の本質が分子レベルで解明されることへの期待が高まった。しかし、その後の分子生物学の発展は、生命現象が単純な遺伝情報の実現ではなく、複雑な調節ネットワークと相互作用によって成立していることを明らかにすることになった。

ワトソン=クリックの発見に関連して、アルベルト・セント=ジョルジ(1893–1986)のものとされる言葉が紹介された。
"Research is to see what everybody has seen and to think what nobody has thought."

「研究とは、誰もが見たことを見、誰も思いつかなかったことを考えることである」 

これは、発見とは、新しいものを見る能力ではなく、既に存在しているものを新しい目で見る能力であるという考えの表明である。1953年の発見に至るために必要な重要な観察事実はすでに蓄積されていたが、それらを統合してDNAの構造と遺伝情報の保存機構を理解する枠組みはワトソンとクリックを待たなければならなかったということになる。これはまた、最初の発表にあった、現象として現れた事実の背後にある構造的・原理的なものを探究するMOSの精神とも通底しているように感じた。一方、演者が研究してきた脳については、状況が異なるという。膨大な知見が蓄積されているものの、脳や神経活動を統合的に説明する原理的な理解には至っておらず、その意味で脳や意識についての根本的な議論はなお困難な段階にあるようだ。






ここで、森氏自身の研究史に入った。最初の興味は、最初期の遺伝子は何なのか、原子的な翻訳装置はどのようなものだったのか、初期のエネルギー産生系はどうしてできたのかというような「遺伝子の創世記」とでも言うべき問題を考えていたという。この問いに対して、ドイツの生物物理学者マンフレート・アイゲン (1927–2019)が一つの理論を提唱している。彼は、非常に速い化学反応を、非常に短いエネルギーパルスによって平衡状態からずらすことで生じる超高速化学反応に関する研究で、1967年にノーベル化学賞を受賞している。

そのアイゲンが、1970年代から80年代初頭にかけて、生命の起源に関する研究に取り掛かり、「ハイパーサイクル」(hypercycle)理論を提唱する。これは、最初に一つの遺伝子が形成されたと考えるのではなく、RNAのような自己複製分子とそれらを支える触媒分子が相互作用することで、自己組織化したシステムが形成されたのではないかと考えた。つまり、一つの分子が原初を担うというのではなく、自己複製する分子と自己維持に関わる分子のネットワーク(共同体)が生まれた時に生命が現れたという見方を取っている。これは関係性を中心に据える存在論の視点から見れば、示唆に富む仮説と言えるだろう。

1981年にアイゲンは、ネットワークを構成する分子の中で、トランスファーRNAが原初の遺伝情報を担った分子ではないかとの仮説を出した。それに対して、森氏は1993年にプロタミン遺伝子をその候補とする論文を発表。しかし、生命の起源に関しては未だ確定的な理論は得られていないようで、フロンティアであり続けている。







次に、話題は生命の歴史(38億年)と生物個体の歴史(100年ほど)へ移っていく。最初の演題で取り上げたコンシュも「果てしない時間」(これは生命の歴史を遥かに超える永遠に近い時間)と「縮小された時間」(我々の人生の時間)として、時間の捉え方の対比を論じている。この発表では、後者の時間をどう生きるのかについて考えた『寿命遺伝子―なぜ老いるのか 何が長寿を導くのか』(2021)、『老いと寿のはざまで ―人生百年の健やかを考えるヒント―』(2023)、『老いをみつめる脳科学』(2024)などの近著の紹介があった。

上の歌が捧げられているリータ・レーヴィ=モンタルチーニ(1909–2012)は103歳まで生きたイタリアの神経生物学者で、神経成長因子の発見で1986年にノーベル賞を受賞している。彼女の波乱万丈の人生はわたし自身も読んだことがあり、百寿の科学者を取り上げた2012年のエッセイのエピグラフとして、リータの「いのちにあなたの日々を与えるのではなく、あなたの日々にいのちを吹き込みなさい!」を選んだこともあり、懐かしく話を聞いた。







最後に、サイファイ研究所ISHEのサイトにあった文章に霊感を得たという歌が紹介され、文章の主として驚くことになった。その一つが上の「Neige Blanche à Paris」(白雪のパリ)である。何と言ってもフランス語になっているので、ノスタルジックな気分にさせてくれる名曲に仕上がっている。この他、意識と幸福の三層構造のページをもとにした歌(要旨にある『幸せの構図』)も素晴らしく、いまでもよく聞く一曲となっている。

発表の最後のスライドは、マルティン・ブーバー(1878–1965)の次の言葉であった。
「始めることさえ忘れなければ、人はいつまでも若い」

「存在とは出会いである」

 「存在とは出会いである」という言葉は、今回のサイファイカフェSHEで生体防御における分子や細胞の出合いを議論している時にも浮かんできた。興味深いテーマになりそうである。

本発表は、わたしにとっては研究者の人生というものを改めて考えさせられる機会となった。







まとめ:矢倉英隆(2026年7月20日)




参加者からのコメント


◉ 本日は、たいへん有意義な貴フォーラムに、小職のような者も参加させていただき、有難うございました。参加者の方々の人数が増えて、内容もとても充実し、矢倉先生が労していらっしゃる成果が如実に顕れていることを感じ、敬服いたしました。ひきつづき、ご指導のほど、よろしくお願い申し上げます。


◉ 本日はお世話になりました。これまでで最も充実した参加になりました。科学に抗して哲学もいま須らく立つべし、と決意を新たにした思いです。今後ともよろしくお願いいたします。


◉ 昨日は会に参加して楽しく過ごすことができました。また、直前の要望にも関わらず私の友人を受け入れてくださったこと、嬉しく思います。

会の中で特に印象に残っておりますことは、矢倉先生の「医学のあゆみ」で出ていたMOSの図であります。個々の事物を観察しデータを集める、そして一般化したり本質を見つけようとする、ここまでは他の本に書かれていたり、ぼんやりと気づかれる人も多少いるかと存じますが、その後のintuitive leapが重要な問題であるかと存じます。

要するに直観的に、超越的な領域にはいっていくことかと理解しておりますが、そこまでいくと「悟り」ですとか「禅」の世界に近いのかと思いました。また、会のなかでも質問させていただきましたが、 intuitive leapに関連してわたくしがどうしても想起するのはベルクソンの「直観」というキーワードであります。intuitive leapより前の段階では対象を外側から眺めるだけで済んでしまいますが、intuitive leapに入ったまさにその中ではもはや言語化が不可能であり、そうしたなかでも理解を助ける概念の一つとしてベルクソンの直観が役に立つことがあるのではないかと思っての質問でございました。

いずれにせよintuitive leapは言語を超越した(超言語的)、あるいは対象が「コトバ」にされる以前の(=前言語的)な質のものであろうと考えております。まとまりのない文章になってしまいましたが、上記のわたくしの理解をもちまして締めの言葉とさせていただきます。


◉ 昨日はFPSSに参加させていただき、誠にありがとうございました。3つの発表とそれを受けた議論によって、停止していた私の思考回路が再起動された気がしています。

矢倉さんのプレゼンテーション「プラトン哲学と現代的課題」を拝聴し、「分析か統合か」という本質探究の2つの姿勢について、認識を新たにしました。また、『ティマイオス』という重要文献を"知らなかったことを知り”、あわててネットで注文しました💦

続く「文化のエグゼルシルス」では、spiritual exercise とmoral perfectionismをほぼ同義とする林氏の解説について、私が「なぜmoralという言葉を使っているのか」「倫理と道徳はどう違うのか」とKYな(空気読めない)質問をしてしまい、申し訳ありませんでした🙇(その後、AIのClaudeを使って疑問は解消しました。具体的なやり取りは、次メールにてご参考までお送りします。結論は「AIは使える!」です。)

最後の森先生による発表「生命との対話 二つのライフヒストリー」は、まさに画期的なプレゼンテーションでした🫨 個人的には、レビ=モンタルチーニ女史を取り上げられたこと。女史がノーベル賞を受賞した1986年当時、私は「日経サイエンス」の編集者だったので、受賞理由の神経成長因子(NGF)について俄か勉強をしたことを思い出します。その後、NGFの遺伝子がコピー/変異により神経栄養因子(BDNF)になったことまで解明された、というお話に、改めて感銘を受けました。森先生による脳科学の現状、すなわち「基本原理が分かっていない段階では、精神は科学的に解明できない」とのご指摘には重いものを感じましたが、決して諦めているわけではないご様子。マルティン・ブーバーの言葉、「始めることさえ忘れなければ、人はいつまでも若い」には大いに勇気づけられました!


(前項つづき)前メールにて触れたAI(Claude)を使ったspiritual excersiseとmoral perfectionismに関する問答を、ご参考までに、以下にお伝えします。

Q:moral perfectionismとはどういう意味ですか?
A:**moral perfectionism(道徳的完璧主義)とは、常に道徳的に「完璧な」選択をしなければならない、少しでも間違えば許されない、と考えてしまう心理的傾向や思想的立場のことです。

具体的には以下のような特徴があります。
小さな倫理的な失敗も自分を厳しく責める
グレーゾーンの状況で「唯一の正しい答え」があるはずだと思い込む
妥協や現実的な判断を「道徳的な弱さ」と感じてしまう

例:たとえば、友人に軽い嘘(「その服、似合ってるね」というお世辞)をついてしまった人が、「私は完全に正直であるべきだったのに、嘘をついてしまった。自分は不誠実な人間だ」と何日も自己嫌悪に陥るケース。実際には人間関係を保つための優しい配慮だったとしても、moral perfectionismの傾向がある人は、そうした文脈を考慮せず「絶対的な正しさ」を自分に課してしまいます。

哲学的には、道徳的ジレンマ(例えば「誰かを助けるために別の誰かを犠牲にせざるを得ない状況」)において、どんな選択をしても何らかの道徳的コストを払うことになる、という考え方(moral residue「道徳的残滓」の議論)とも関連して語られることがあります。

心理学の文脈では、これは完璧主義(perfectionism)の一種として、不安障害やうつ状態と結びつくこともあり、「白か黒か」で物事を判断する認知の歪みとも関連づけられます。

Q: spiritual excersiseとは同義ですか?
A:いいえ、同義ではありません。むしろ別の概念で、関連はあるものの意味の範囲が異なります。

moral perfectionismは「完璧でなければならない」という要求・規範・心理的傾向を指すのに対し、spiritual exercise(精神的修練)は、道徳的・精神的な成長のために行う具体的な実践・訓練方法を指します。

この言葉は特に哲学者ピエール・アド(Pierre Hadot)が古代ギリシャ・ローマ哲学(ストア派やエピクロス派など)を論じる際に使った概念として有名です。アドによれば、古代の哲学は単なる理論ではなく、日々実践することで自己を変容させる「生き方」であり、そのための具体的な訓練(瞑想、自己吟味、死の想起など)を spiritual exercise と呼びました。

例:
ストア派の哲学者は毎晩「今日どんな行動をとったか、何を改善すべきか」を振り返る日記をつけていました(これは spiritual exercise の一例)。
これに対して moral perfectionism は、その振り返りの中で「今日一つでもミスをしたから自分はダメな人間だ」と極端に自分を責めてしまう態度・傾向のことです。

つまり、spiritual exerciseは健全な自己改善の手段になり得ますが、それがmoral perfectionismに陥ると、同じ実践がかえって自己批判や不安を強める不健全なものになってしまう、という関係です。両者は対立するというより、前者が後者を助長する場合もあれば、逆に前者が後者を防ぐ役割を果たすこともあります。

Q: アドがmoral perfectionismをそのような否定的なニュアンスで記述しているのですか?
A:いいえ、その逆に近いです。私の前の説明を訂正させてください。

検索した結果、アドが論じる文脈での「moral perfectionism」は、心理学的な「完璧でなければ許されない」という否定的な意味ではなく、スタンレー・カヴェル(Stanley Cavell)が提唱した哲学的伝統としての「moral perfectionism」を指していることがわかりました。これはプラトンからエマソンへと連なる伝統で、「最善の自己」や自己完成に関わる地平を探求する道徳のあり方を意味します。

この文脈での perfectionism は、「完璧でなければ人間失格だ」という否定的な自己批判ではなく、むしろ「より良い自己へと絶えず向かっていく」という積極的・肯定的な道徳的探求を指します。アドは、まさにこの意味での道徳(自己を陶冶する営み)が中世まで存在し、それこそが自己を涵養するための精神的修練(spiritual exercises)を定義するものだったと論じています。

つまり、アドの文脈では:
spiritual exercise = 自己を高め、変容させるための具体的な実践
moral perfectionism(カヴェル的な意味) = そうした自己変容・自己超越を目指す道徳観そのもの

この二つは対立するどころか、ほぼ同じ方向を向いた、密接に結びついた概念です。むしろ spiritual exercise は moral perfectionism(この哲学的伝統としての)を実現するための手段だといえます。

訂正:前回私が説明した「白か黒かで自分を追い詰める心理的完璧主義」は、日常語やポップ心理学でよく使われる意味であり、アドやカヴェルが論じる哲学的な moral perfectionism とは異なる概念です。混同して説明してしまい、申し訳ありません。同じ英語表現でも、文脈(心理学 vs. 哲学)によって意味がかなり異なる言葉だとご理解いただくのが正確です。


◉ 佐賀徹雄氏から「第17回FPSS雑感」というエッセイがSPNL(Science and Philosophy for Nature and Life)に届きましたので、サイトに掲載いたしました。今回のFPSSに留まらず、広くISHEの考え方や活動にも触れられております。お読みいただければ幸いです。


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