第13回 サイファイフォーラムFPSS のお知らせ
日時: 2025年3月8日(土)13:00~17:00
会場: 日仏会館 509会議室
(新しい会場になりますので、ご注意ください)
〒150-0013 東京都渋谷区恵比寿三丁目9番25号
会費: 一般 1,500円、学生 500円
(飲み物は各自持参してください)
参加を希望される方は、以下まで連絡をいただければ幸いです.
連絡先: 矢倉英隆(she.yakura@gmail.com)
よろしくお願いいたします.
プログラム
(1)13:00—14:00 矢倉英隆
シリーズ「科学と哲学」⑦ プラトンの宇宙観
今回は、プラトンが宇宙の生成、維持についてどのように考えていたのかについて、対話篇『ティマイオス』などを参考にしながら分析します。プラトンの考えによると、この宇宙は「デミウルゴス」と呼ばれる神的な職人によって理想的なイデアに近い形が作り出されたとされます。そこで働くのが、無秩序なカオスから調和のある宇宙へ導く理性(nous)です。現代科学では排除されている創造主の関与や、ある方向に進むという目的論的思考が見られます。また、プラトンの学園アカデメイアの入り口には「幾何学を知らざる者、この門をくぐるべからず」とのプレートが掲げられていたと言われますが、形を作る過程で重要になるのが数学、とりわけ幾何学であるとプラトンは考えていました。その具体的内容はどんなものだったのか、さらにプラトンの宇宙観が含意する哲学的・倫理的側面についても考える予定です。
(2)14:00—15:20 細井宏一
人文科学と自然科学の間にあるサイエンス ~考えるということ~ ——啓示か、観察か、それとも・・・——
● 古代から、宗教改革期を経て、現代へと至る人類の歴史の中で、各時代を代表する「人文科学(哲学・神学・倫理学)」や「自然科学(物理学・数学・天文学)」の著名な学者達は、2つの科学をどのように考えてきたのかを辿ってみる。
● そして、これまで人類が営々として紡いできた「知」の姿を、両科学の関係に着目しながら、時代的変遷も含めてあぶり出してみたい。
● 最後に、これまでの膨大な両科学の知を学んだ人工知能AIは、両科学とその関係をどう見るのかについて、最近のAIにおける機能「RAG/Retrieval-Augmented Generation(検索拡張生成)」も用いて調査した検討結果を紹介する。
(3)15:30―16:50 岩倉洋一郎
科学は自らの発展を制御できるのか?
科学が哲学から独立してから、原子力発電や人工知能, ヒトに対する遺伝子改変など、多くの倫理的、社会的問題を抱え込むことになったが、これらの問題は科学自らの努力によって解決できるのであろうか。あるいは哲学、倫理の様な別の枠組みで考える必要があるのか、本フォーラムで議論してみたい。
最初、議論の叩き台として、人に対する遺伝子改変の問題をLee SiverのRemaking Eden(1997)を参考にして一緒に考えてみたい。彼自身は倫理的問題を正面から取り上げているわけではないが、あくまでも科学的にこの技術がもたらす可能性を予測することによって、その是非を我々に問いかけているように見える。彼に依れば、遺伝子改変は最初は遺伝病を治療したり、特定の病原体に対する耐性を獲得したりするために行われることが予想されるが、徐々に身体的能力や知能の向上、さらには超能力を得るために遺伝子改変が行われることを予測している。遺伝子改変を重ね、ついには染色体数まで変わってしまうと、もはや従来の人類との間で子孫を作ることができない新種の人類が誕生することになり、従来の人類との間で戦争が起こることさえ、考えられないことではない。彼のこのような科学的予測は、かなりの説得力を持ってこの技術を無批判にヒトに対して用いることの危険性を指摘してくれたように思える。
しかし、例えば人工知能の我々の未来に及ぼす影響について、どのような科学的な予測を試みることができるのであろうか。巧妙に作られたフェイク画像を確実に見破る技術開発は可能か。人工知能自身が自分で改良、進化を始めた時、人類に対して脅威になることがないと断言できるのか。あるいは、一部の富豪が政府と結託してこうした技術を独占し、私たちを支配することがないのか。私には自信がない。
この他、遺伝子改変や人工知能が孕む大きな問題点として、ヒトの存在意義や尊厳が脅かされる可能性が挙げられる。しかし、これらの問題に対する検討はまだほとんどなされていない。これらの新しい技術のもたらす恩恵を享受しつつ、考えられる負の側面を避けるにはどうすれば良いのかを議論したい。
会のまとめ
冒頭、寒い中、また年度末のお忙しいところ参加いただいた皆様に感謝したい。
今回の話題は、(1)この宇宙の生成をプラトン(427-347 BC)はどのように捉えていたのか、(2)科学と哲学と神学の歴史を振り返りながら、これからに向けた科学と人間のあり方をどのように考えるのか、(3)現代科学、特に遺伝子改変技術や人工知能の進歩に伴う倫理的問題にどのように向き合うべきなのか、というようなテーマについて議論した。以下、具体的に振り返ってみたい。
(1)矢倉英隆: シリーズ「科学と哲学」⑦ プラトンの宇宙観(発表スライド)
本題に入る前に、R・G・コリングウッド(1889-1943)のプラトン哲学についての評価の中に、サイファイ研究所ISHEが提唱している「科学の形而上学化:MOS」と通じる精神に貫かれているように見えるところがあった。それは、以下のような文章であった。
「事実を単に観察・分類するだけでなく、自然の世界にある叡智的な構造や形相的要素を発見することを使命とする自然科学を、プラトンは先取りして弁護している」
プラトンの宇宙観を探るため、『ティマイオス』から読み始めることにした。始める前は、全篇が宇宙の生成やその後の維持などに割かれているものと思っていたが、実際には宇宙の生成と人間の成り立ちから構成されており、むしろ後者の占める割合の方が大きいように見え、驚いた。人間は自然を構成している重要な要素なので、その内容は当然と言えば当然なのかもしれない。しかし、この部分については次回以降に取り上げることにして、今回は宇宙そのものの生成に絞ってプラトンの考えを探ることにしたい。
ティマイオスはまず、(1)常に在るもの、生成しないもの(理性あるいは知性、言論により把握されるもの)と(2)常に生成・消滅し、真に在ることのないもの(思惑・感覚により思いなされるもの)の区別を提案し、宇宙はどちらであるのかを問う。そして、宇宙は物体性を具え感覚により捉えられるので、出発点から始まる生成されたものであり、生成物の中で最も立派なものなので、製作者は理性と言論で把握できる同一性を持つモデルに倣って製作したはずであるとする。
ということで、宇宙の生成に当たっては、(1)生成のもととなるモデル(形相・イデア)、(2)モデルを模写する宇宙の製作者(デミウルゴス)、そしてプラトンは(3)あらゆる生成の場を提供する養い親のような存在として「受容者」あるいは「場」(コーラ)を設定する。
まず、デミウルゴスだが、これは既に存在していた無秩序な物資(カオス)にイデアをモデルとして秩序(コスモス)を与える存在である。最初に宇宙の魂を創り、それによって天体の動きをコントロールして宇宙を生きたものにする。その後、神々を創造して宇宙の管理を委ねる。さらに、神々に命じて人間の魂を創らせる。これは宇宙の魂と同じ材料からできているので、両者は親族関係にあるとされる。一神教の神は、無から宇宙を創造し、有神論の場合、その維持にも関わり、時間そのものを作ったとされる点で、デミウルゴスとは異なっている。
それから、イデアと生成物との仲介者として設定した「場」だが、これは無定形で無属性のため、どんなものでも受け入れ、イデアの形を受け取って感覚的存在を成立される父と子の間にある母のような存在であるとした。
プラトンの宇宙論は全くの創造ではなく、エンペドクレス(c. 490-c.430 BC)の四元素説やピタゴラス(582-496 BC)学派やテアイテトス(c. 417-c. 369 BC)などの影響を受けたものである。プラトンのアカデメイアの入り口には「幾何学を知らざる者、この門をくぐるべからず」という言葉が掲げられていたと言われるほど幾何学を重視したので、自然の本質理解に幾何学を用いようとしていたことは想像に難くない。
エンペドクレスの四元素説は、「火」「空気」「水」「土」の4つのリゾーマタ(根)が愛と争いの力により、結合したり分離したりすることによりこの宇宙は構成されるとするため、絶対的な意味での生成や消滅は認めない立場である。また、ピタゴラス学派は、宇宙の本質を数や幾何学的形状と関連付けて理解しようとし、調和と対称性の観点から正多面体の研究を行っていた。テアイテトスは、正多面体は5つしかないことを証明していた。
このような背景の下、プラトンは四元素と正多面体(プラトン立体)を以下のように対応させた。すなわち、「火」は最も鋭く、炎のように尖っている正四面体に、「土」は最も安定し、構造的にもしっかりしている正六面体(立方体)に、「空気」は比較的軽く、風のように動きやすい正八面体に、そして「水」は滑らかで流動的な形状である正二十面体に対応させたのである。
これを読んだ現代の物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルク(1901-1976)は、プラトンの考えが全くの不条理に見え、これらの正多面体がメタファーとしてそこに在るのか、実際にこれらの元素の中に存在するのかも分からなかったという。しかし、この読書の最大の収穫は、もしも物質世界を理解しようとするならば、その一番小さな部分について数学的な形式を見つける以外には不可能なのではないかという確信だったと述懐している。
次に、対話篇『法律』にある自然あるいは宇宙に関する記述を見てみたい。まず、第10巻にある指摘をお読みいただきたい。批判の対象となるのは、このような考えを持つ人たちだとする。すなわち、
最大最美なものは、自然と偶然が作り出す。
火、水、土、空気は、自然と偶然が生み出す。
魂(生命)も、大地、太陽、月、星も、火、水、土、空気から作られる。
天の全体は、知性でも、神の力によるのでもない。
このような主張をする人たちは不敬虔である。魂が最初にあったものの一つで、あらゆる物体に先立ち、その変化を支配していることを知らないと批判している。プラトンは、現代科学では認められている自然主義や偶然性を退け、次のような主張をする。
(1)自然や宇宙は合理的で秩序ある原理により構造化されている、(2)自然や宇宙全体は目的(テロス)のために存在する、(3)天体の動きは神の理性の表現であり、天体は調和を体現する神聖で知的な存在である、(4)宇宙は偶然や機械的な産物ではなく、自然界の秩序の説明のためには設計者としての神の存在が必要である、(5)自然の秩序と合理性は人間の行動モデルとなり、社会や個人も理性と正義に適った生き方をすべきである。
プラトンに見られる「自然を超えるものの存在」を認める宇宙観と、「自然」が構築する宇宙観との対立は、人類の歴史上初めてのものかもしれない。いずれにせよ、これ以降の哲学史の底流を流れ、現代まで引き継がれている大きな問題と言えるのではないだろうか。
『法律』第7巻には、宇宙の秩序や自然の調和は人間の教育に反映されるべきであり、特に天文学や音楽は人間の魂に秩序をもたらすという主張がみられる。例えば、宇宙(コスモス=調和)は人間教育のモデルになる、特に音楽や舞踏は秩序や調和を魂に植え付ける助けになるという考え。あるいは、天体や自然現象は神々の意志や理性によって動かされているので、自然観察によって神々の意志を理解し、道徳的行動へ導く手段になるという考えなど。
『法律』第4巻にも、宇宙の秩序と調和を模範として、人間社会や法律に反映させるのが地上の秩序を保つ上で重要であるという思想が見える。このように、自然解析で明らかになった現象の思想的側面を人間社会に当てはめることはこの時代から行われていたようだが、無批判な援用には注意を要するとだけつけ加えておきたい。
最後に宇宙の多数性について一言だけ。『ティマイオス』の中に、「われわれは宇宙を一つのものとして呼んで来ましたが、それで正しかったのでしょうか。それとも、多なるものとして、また無限個のものとしてさえ語るほうが、正しかったのでしょうか」とティマイオスが自問し、「もしモデルに即して製作されたとすれば、それが二つということはないだろう。なぜなら、理性の対象となる生き物すべてを包括しているものが二つあることはないだろうから」と自ら答えるところがある。
フランスの哲学者マルセル・コンシュ(1922-2022)は、宇宙の多数性についてこう言っている。「科学者が言う宇宙は、観測された事実に基づく宇宙、すなわちビッグバンの宇宙である。しかし、それは宇宙(コンシュの言う存在の全体を意味する「自然」)のほんの一部に過ぎない」。現在ではマルチバース理論も出されているが、科学者の言う宇宙に囚われない構想を持つこと、さらに言えば、科学とは異なる自然についての真理を探究する試みには大きな意義があるのではないだろうか。これからの哲学が考えるべき一つの方向性のようにも見える。
(2)細井宏一: 人文科学と自然科学の間にあるサイエンス ~考えるということ~ ——啓示か、観察か、それとも・・・——
細井氏のお話は、自らの人生を振り返るところから始まり、その過程で気づいた「思考の欠如」を起点として、考えるとはどういうことであり、何のための行為なのか、考えることを通してどこを目指すのか、そして人類はどのような思考を積み重ねてきたのかについて概観した後、今後の具体的な取り組みにも触れられた。以下、筆者の興味に合わせてそのまとめを記してみたい。
学生時代に読んだ中澤護人(1916-2000)著『鉄のメルヘン 金属学をきずいた人々』(アグネ、1975)に触発され、金属学の道に入った。企業人としてキャリア重視の会社員生活を送っていたが、先が見えてきた時、それまで自分の人生を真に考えていたのかという疑問が生まれ、これからは「考える」ことを中心に据えた生き方を目指すことに決めたという。
パスカル(1623-1662)がいみじくも指摘したように、我々人間の尊厳は考えることの中にあるのであって、それ以外の中にはない。細井氏は、近年のAIが蔓延する状況に全面的に身を委ねると「旧式のロボット人間」になるとして、自ら考えることを強く推奨している。そこで、考えることと、科学あるいは知識との関連について分析する。"science" という言葉は、「知る」を意味する "scio" の現在分詞 "sciens" の名詞形 "scientia" に由来するという。ここから、考えることを科学あるいは知識と同義に解釈する。ここで筆者がコメントを加えるとすれば、ここで言われている「考える」は、ハイデガー(1889-1976)の「計算による思考」と「瞑想による思考」という考え方を参照すれば前者に当て嵌まり、考えること(あるいは知ること)の一面しか指していないように見える。
1999年に開催されたブダペスト会議で出された世界宣言には、以下の4つの科学が謳われている。
1)知識のための科学
2)平和のための科学
3)持続可能な開発のための科学
4)社会における科学、社会のための科学
知識のための科学は、従来からある考え方だったが、そこに社会との関連を視野に入れた3つの位相を科学に与えるもので画期的な考え方だったと評価された。
これらを踏まえ、これから目指すべきところを「ウェルビーイング」(物質的豊かさ、安全で豊かな社会、文化的で充実したたおやかさ)に据えることにする。この概念を定量的に示すことは難しいので、ESG(Environment, Social, Governance:環境、社会、ガバナンス)という3つの価値の指標と、SDGs(Sustainable Development Goals)という17のゴールが設定されている。SDGsにおいては多様性と包摂性が欠かせないが、日本では後者の視点が弱いという。ウェルビーイングを見据えて求められるのは、何もないところに自ら扉を設定し、その向こう側へ抜け出るために考える人物であるという。
ここで、思考あるいは科学について歴史的な考察が展開された。まず古代ギリシアにおいては、タレス(624-546 BC)に代表されるアルケーを求めた一元論と、プラトンに代表される二元論(現象界とイデア界を想定)が混在していた。
中世に入ると、ベネディクト会の修道士で最終的にはカンタベリー大司教になった「スコラ学の父」とも称されるアンセルムス(1033-1109)が現れる。彼は「知解を求める信仰」を説き、理性と信仰との調和――すなわち、信じることにより、より深い理解に至る、あるいはより深い理解に至るために信じる姿勢――を強調した。また、主著『プロスロギオン』の第2章において展開される、後にカント(1724-1804)によって「存在論的」と呼ばれる神の存在証明が有名である。それは、以下のような論証であった。
1)神はそれより大いなるものが何も考えられないものである。
2)心のうちで神なしと言った愚かなるものでも、これは知解できる。
3)知解できるものは知性のうちに存在している。
4)知性のうちに在るものは実在し得るが、実在するものは知性のうちに在るものよりも大である。
5)したがって、それより大いなるものが知性のうちだけに在るということは不可能である。
この論証については、デカルト(1596-1650)、スピノザ(1632-1677)、ライプニッツ(1646-1716)等が妥当と見なしたのに対し、トマス・アクィナス(c. 1225-1274)やカント等は否定するなど、賛否両論が出されている。
12~13世紀にかけて、理性と観察を優先するのか、信仰と啓示を優先するのかについての対立が見られた。例えば、ドミニコ会のアクィナスは、その著『神学大全』において、信仰と理性が対立するのではなく補完し合うものであり、両者の一致を説いた。これに対して、アリストテレス哲学をイスラム世界に広めたイブン・ルシュド(アヴェロエス、1126-1198)は、理性(哲学的真理)と信仰(宗教的真理)が相容れない場合があるとして、両者は別々に存在するという二重真理説を唱えた。さらに、フランシスコ会のボナヴェントゥラ(1221-1274)はアリストテレス哲学には批判的で、アウグスティヌス(354-430)を重視し、理性に対して啓示と信仰の優位性を説いた。
16世紀の宗教改革に際して、今日においても重要な問題を提起する論争があった。それは『自由意志論』(1524)を発表したデジデリウス・エラスムス(1469-1536)と『奴隷意志論』(1525)で対抗したマルティン・ルター(1483-1546)との間で行われたものである。エラスムスが、人間には限定的ながら自由意志は存在し、神の全知と両立するとしたのに対し、ルターは、人間は罪により堕落しており、救いに向かうのは自由意志ではなく神の恩寵による以外にはないとした。
さらに、ルターの『キリスト者の自由』(1520.11)も取り上げられた。この書は、信仰・自由・行為の関係について論じたもので、次の逆説を提示する。
「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であり、何人にも服従しない。キリスト者はすべてのものに仕える僕であり、何人にも服従する。」
これは、信仰によって義とされたキリスト者は、律法や制度に縛られることなく、神の前に自由である。しかし、その自由は自己中心的に生きることではなく、隣人への愛と奉仕という行為の中に生きることであった。この書に先立って、『ドイツ国民のキリスト教貴族に与う』(1520.8)という当時のカトリック教会への批判の書を発表。信仰によってすべてのキリスト者は司祭であるとする考え(万人祭司)を主張している。
これらの考察を踏まえ、これから何をしていくのかについてまとめられた。そのためには立ち止まって考え、自らの問題を設定し、その先に向かって歩むしかないという結論であった。ご自身としては、これまでの専門領域での蓄積を生かして、例えばカーボンニュートラルの問題に取り組んでいきたいとのことであった。
(3)岩倉洋一郎: 科学は自らの発展を制御できるのか? (発表スライド)
この発表は、最近の原子力発電、人工知能(AI)、ヒトの遺伝子改変などに見られる科学・技術の発展がもたらす倫理的・社会的問題に対して科学は対応できるのか、他の領域、特に哲学や倫理の枠組みから考える必要があるのか、という問題意識に基づいたものであった。前者に対する直感的な回答はNONとなるが、それに対してどのように対応するのかが問われることになるのだろう。
ヒトの遺伝子改変技術についての説明があった後、この問題を考えるための叩き台として、リー・シルヴァー(1952-)の Remaking Eden: Cloning and Beyond in a Brave New World (1977)(邦題『複製されるヒト』)を用いて議論が進められた。まず、ヒト生殖系列遺伝子改変の問題点として、技術的には不確実性や予測困難性あるいは予測不可能性が伴うので、その克服が必要になる。倫理的には、各種能力のエンハンスメント、先天性遺伝子異常の治療などにより、弱者の淘汰や個性の喪失、それらがもたらす人間の尊厳の毀損など想定される。
AIに関しては、メリットとして画像解析、文章要約、大規模データの処理、あるいは細胞・器官・生体モデルの作製などがあるが、デメリットとしては、フェイクニュースや偽画像、雇用の喪失、プライバシーの侵害、シンギュラリティ(人工知能がヒトの知能を超える技術的特異点のことで、レイ・カーツワイル(1948-)によれば2045年頃)などが挙げられ、偽情報による攪乱、扇動、戦争、あるいは権力による監視、支配、さらには弱者の淘汰をもたらす可能性がある。
このような危険性を鑑み、新技術に対する規制の動きがある。例えば、組み換えDNA技術や遺伝子組み換え生物に対する規制が行われている。また、哲学的・倫理的規制としては、遺伝子治療についての指針(ヒト生殖系列遺伝子操作や治療以外のエンハンスメントの禁止など)が出され、AIに関してはEUの規制案を受け日本でも規制法案策定の動きがある。これらの動きに対して、倫理的に普遍妥当性のある規範は存在するのか、あるいは実効性のある規正法は可能なのかなどの問題点も指摘されている。
ヒト胚の取り扱いに関する総合科学技術会議の考え方(2004)、ヒト受精胚に行う遺伝情報改変技術を用いる研究についての子ども家庭庁・文科省・厚労省の倫理指針(2019)、ゲノム編集技術のヒト胚への応用に対する法的規制の在り方に関する日本学術会議の提言(2020)などは、スライドを参照していただければ幸いである。
ここで、AIについてのEUの規制案について説明があった。EU案では、リスクレベルを(1)許容できないリスク、(2)ハイリスク、(3)特定の透明性が必要なリスク、(4)最小リスクの4段階に分類している。(1)許容できないリスクとしては、人の生命や基本的人権に対して直接的な脅威をもたらすと考えられるAIシステム。(2)ハイリスクには、人の健康・安全・基本的人権、社会的・経済的利益に影響を与える可能性があるAIシステムが挙げられている。(3)透明性が必要なリスクとしては、深刻なリスクはないが、透明性に関する特定の要件を満たす必要があるAIシステム。(4)最小リスクとは、リスクがごく僅かか、ないAIシステムとなっている。これらに対する対応として、(1)は禁止、(2)は要件と事前適合性評価の準拠を条件とする、(3)は情報/透明性の義務を条件とする、そして(4)は制限なし。これらの規制によって安全や基本的人権を守ることができるのかという疑問も出されている。
そこで、いろいろな疑問についてChatGPTに相談してみた結果が発表された。詳細はスライドに当たっていただきたいが、以下のような疑問が議論された。
1)将来、人間の知能を超える超知能が出現すると懸念される重大な問題とそれに伴う倫理的問題、悪用のリスク、それに対する対策
2)倫理規範や法的規制の具体例
3)AIの軍事利用の制限:AIの軍事利用はすでに進んでおり、完全な規制は非現実的だが、部分的制限は可能だろう。例えば、国連では合意には至っていないが自律型致死兵器(LAWS)禁止条約の議論が進行中である。
4)雇用や人間の存在意義の喪失の可能性に対する対策:短期的には、(1)新しい雇用の創出、(2)ベーシックインカムの導入、(3)新しい働き方の推進など、長期的には、(1)「仕事=生きがい」という価値観の見直し、(2)AIとの共存モデルの構築、(3)宗教・哲学・精神的探究を重視する生き方の探究などが考えられる。
5)上記対策の実現には時間がかかり、AIの進歩には追い付かないとすれば、AI研究を止めるべきではないかという意見の是非:すでに社会に浸透しているAI技術を止めることは現実的ではなく、社会の停滞にもつながる。変化に適応できない人を守る短期的な対策として、AI税を導入して社会に還元する、AI時代に適応するための教育の強化、ベーシックインカムの導入などが考えられる。長期的には、上述のように、生きがいの見直しやAIとの役割分担を明確化などが挙げられる。
ChatGPTの分析の中に、筆者が考えているこれからの時代に向き合うための基本となるフレーズが見つかった。それは「宗教・哲学・精神的探究を重視する生き方の探究」というところである。これはまさに、サイファイ研究所ISHEが目指していることでもある。そんなことではAI研究のスピードには追いつかないという声も聞こえてきそうだが、このような志向性を持つ人が増えることこそ、最終的には現状に適応する力を確保する最短の道になるような気がしている。皆様のご意見を伺いたいところである。
発表の最後に、このような現代的なテーマについてサイファイ研究所ISHEとしての考え方を発信するという方向性を模索すべきではないかという提案があった。これからの課題として考えていくことにしたい。
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次回の第14回FPSSは7月12日(土)、恵比寿カルフールの Gallery にて開催する予定です。
プログラムは決まり次第、この場でお知らせいたします。
よろしくお願いいたします。
(まとめ: 2025年3月24日)
参加者からのコメント
◉ 昨日は私も改めて自分の人生(哲学研究)を振り返るよい機会となりました。ありがとうございました。拙い文ではありますが、昨日の感想を送らせていただきます。
● 矢倉先生のご発表については力が及びませんでした。目的論という観点で言えば、アリストテレスのそれとの対比の意味で、よい復習となりました。また、「あれ、そんなこと書いてありましたっけ?」という発見も結構ありました。自力で読むという頼りなく孤独な作業が、先生の丁寧な解説により、さらに豊かなものになりました。ありがとうございます。
●「人文科学と自然科学の間にあるサイエンス」について
「考える」ということがこれまでの会社員生活で欠落していたと気づかれる契機として、大阪大学の臨床哲学に触発された部分もあったのではないかと思いましたが、そうでもないということでした。発表のなかで触れられていた梶谷真司氏が推し進める哲学カフェでの「問う-考える」営みは、もとはと言えば、大阪大学の臨床哲学研究科がアカデミックな機関としては最初に日本に持ち込んだからです。
アヴェロエス、アクィナス、ボナヴェントゥラの3人の神学者の対比がわかりやすくまとめられ、より理解が進みました。「二重真理説」は、本来ならカントの理論理性と実践理性を分ける態度に通ずるものがあり、もっとシンパシーを感じてもよいはずですが、どこか「詭弁」めいたものと捉えていました。しかし今回の発表を拝聴し、むしろ二重真理説を好意的に受けとめるようになりました。
●「科学は自らの発展を制御できるのか?」について
前回のご発表と同様、科学者の側から危機感を発し、哲学(倫理学)が要請されているということに驚きを感じるとともに、社会にまた一つ希望を見出した気がしました。科研費研究においてもヒトの遺伝子操作に関する哲学研究が行われているにも関わらず、科学者に届いていないということは、もしかしたら声明や提言を出すまでに至っていないのかもしれないと、後から思いました(政治活動と一線を画しているつもりか?)。ですから今回出てきた「サイファイ研究所 ISHEとしての発信(?)」といった提案は非常に有意義な社会実践的な話であり、期待したいところです。
エンハンスメントを規制する説得力ある理由が見当たらないことについて。あらゆる危険や格差が克服された後にも最後まで残るであろう薄気味悪さや畏怖の念といった直観的な理由や生物学的多様性が損なわれるという理由以外に、その是非や自己決定権の割合はともかくドーピングや美容整形は少なくとも本人が自らの意志のもとで行なう行為であるが、エンハンスメントは本当に胎児が望んでいるかどうかわからないものを、所与のものとして施してよいのか、という問題に関わると、これも後からふと浮かびました。
◉ 3月は大変お世話になりありがとうございました。大変遅くなりましたが13-FPSSのコメントを送らせていただきます。よろしくお願いします。
● 矢倉先生の「哲学と科学シリーズ」⑦は、「プラトンの宇宙観」でした。プラトンはエンペドクレスの四元素とテアイテトスの幾何学の影響を受けその宇宙観を形成していったということでした。四元素を幾つかの正多面体との幾何学的な関係で示しています。その図を見せていただきましたが、私は全く理解できず、これはなにか比喩的なものであるのかという質問をしたところ、ハイゼンベルグもその図を見て全く不条理でその意味が何であるのかを理解できなかったという例を示していただきました。ハイゼンベルグのプラトンの本を読んだ最大の収穫は、結局、物質世界を理解しようとするならば、その一番小さな部分について数学的な形式を見つけるそれ以外にないのではないかという確信であったということでした。天才物理学者は同じ図を見ても到達点が違うと思いました。私が驚いたことは、プラトンにみられる「自然を超える存在」を認める宇宙観と「自然」が構築する宇宙観との対立が人類の歴史上このころに始まり、哲学史の底流を流れる大きな問題として、現在まで引き続き継がれているということでした。
● 細井先生の「人文科学と自然科学の間にあるサイエンス~考えることー啓示か、観察、それとも・・・は」、科学者であり宗教家である細井先生が、哲学、神学そして科学の歴史を遡りそれらの関連性を広範な資料で示してくださいました。浅学の私にはその内容に追従できない部分も多々あり、質問もプリミティブなことばかりでした。ギリシャ哲学と神学の関係、神学における科学への動機とその位置づけ、そして現代へと続く科学の形而上学化、やはり問いをたて「考える」ためには基底を学ばなければと改めて思いました。
● 岩倉先生は「科学は自らの発展を制御できるか」で、現在の人類が科学技術の進展により直面したAIと遺伝子改変の問題を採りあげてくださいました。どちらもこれまで科学技術がもたらした危険性とは全く異質なもので、取り扱い次第では人類が違う種へと移行してしまうかもしれないような問題なのかもしれません。国家、企業体そして個人は、倫理観も価値観もそして正義もそれぞれの立場により異なったものであります。さらに、そこには過当競争が存在します。これらの事柄からはいろいろなストーリーが生み出され、未来の予測は全く不能です。制御は極めて困難であろうことが予想されます。しかし、現実はこれまでどおり試行錯誤で進んでいくことになるのでしょうが、AIも遺伝子改変も進歩の速度がこれまでとは桁違いに早いです。矢倉先生の言われるように「宗教・哲学・精神的探究を重視する生き方の探究」を志向する人を増やしていくことが、科学の発展を自ら制御する唯一の道であるように思われました。
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