7-FPSS



第7回サイファイ・フォーラム FPSSのお知らせ



日 時: 2022年10月1日(土)13:20~17:00
(部屋は13:00から開いています)

会 場: 恵比寿カルフール C会議室


渋谷区恵比寿4-6-1
恵比寿MFビルB1
03-3445-5223

参加費: 一般 1,500円、学生 500円
(コーヒーか紅茶が付きます)


プログラム:

(1)13:20~14:00 矢倉英隆

シリーズ「科学と哲学」 ① イントロダクション

(2)14:00~15:30 渡邊正孝

変性意識と無意識

(3)15:30~17:00 岩永勇二

『免疫学者のパリ心景』発刊記念トークセッション!


興味をお持ちの皆様の参加をお待ちしております。

申し込み先: 矢倉英隆(she.yakura@gmail.com)

フォーラム終了後、懇親の会を予定しています。
こちらも、よろしくお願いいたします。


要 旨:

(1)矢倉英隆: シリーズ「科学と哲学」 ① イントロダクション
 新型コロナの前になりますが、FPSSを貫くテーマについて話をしていただけないかという提案をいただきました。今回からその提案に応える形で、「科学と哲学」というシリーズテーマの下、話をすることにいたしました。科学も哲学も非常に大きな言葉ですので、その言葉から生まれるイメージや、そこに見出す意味は人それぞれだと思います。このシリーズでは、あくまでもわたしの切り口で話題を提供し、参加者の皆様との自由な意見交換を通して、さらに広く深い理解に達することができればと考えております。第1回は、このシリーズを始めるにあたっての考え方と当面の方針を紹介することにいたしました。忌憚ないご意見をいただければ幸いです。

 

  (2)渡邊正孝: 変性意識と無意識

 変性意識とは、薬物、睡眠、催眠、感覚遮断、脳の電気・磁気刺激により、意識が変容させられた状態を言う。夢は最も身近な変性意識である。明晰夢(自分が夢を見ているという意識を持ち、夢の内容を変容できるというもの)、睡眠麻痺(金縛り)なども変性意識に属する。LSD、メスカリンなどの幻覚剤により、幻覚体験が得られることは広く知られている。感覚遮断も様々な幻覚を生むことが知られている。催眠は術者の暗示により、また脳の電気・磁気刺激はその刺激で、様々な意識体験を生じさせる。瞑想、宗教体験も、日常から離れた意識体験を生む。臨死体験は心臓が停止し、ほとんど死亡という段階から生還した人たちが報告するもので、世代、性別、国籍に拘らずよく似た内容である。最近の研究では、脳の頭頂-側頭接合部の磁気刺激で臨死体験の一つとされる体外離脱体験や自己像幻視(ドッペルゲンガー)体験が報告される。
 変性意識は人の意識的制御を離れて生じるという意味で無意識的体験と共通するところがある。私たちの行動の非常に多く―呼吸や歩行、運転などを含め―は無意識のうちに行われる。意識レベルは高いものの意識が伴わない精神活動として、不注意盲(何かに注意を向けることで、他のことには注意が向けられないため、見えているはずのものが見えない現象)、変化盲(注意して見ているはずなのに、途中で発生した明白な変化に気づかない現象)などがある。サブリミナルな刺激による行動変容も報告される。独創的アイデアは問題を集中して考えていることから離れて、マインドワンダリングの状態のときに生まれる場合が多いとされる。こうした無意識的思考には脳のデフォルトネットワークが重要な役割を果たしていると考えられる。

 

(3)岩永勇二: 『免疫学者のパリ心景』発刊記念トークセッション! 

  弊誌『週刊 医学のあゆみ』にて2012年より2022年まで105回にわたり連載された、主宰者・矢倉先生によるエッセイ「パリから見えるこの世界」が今年6月『免疫学者のパリ心景』として小社より書籍化されました。今回この本の発刊を記念して、著者・矢倉先生とのトークセッションを開催させていただきます。

 「希望の書」となることを願うと、発行に際して矢倉先生はブログで述べておられますが、皆様は読後どのような感想をお持ちでしょうか? 「勇気の書」、「幸福の書」、あるいは「祈りの書」? ひょっとすると「運命の書」ではないかと思われた読者もどこかにいらっしゃると確信します。多様な読み方を許容する本書の魅力について、著者を交えてオープンにインタラクティブに語り合うという贅沢な時がここに実現します。 
 ひとりの著者との出遭い、一冊の本との出遭いにとどまらず、コロナ禍を経て皆が分かったことは、こうして直に対面して語り合うことの僥倖と言ってもよい有難さです。
 思ってもいない言葉の応酬を期待するのはもちろんですが、会場に伴にいるだけで、なにかがすでに実現しているといったら言い過ぎでしょうか。

 「偶然は存在しない。あるのは約束された出遭い (rendez-vous) だけだ」

  ――本書巻頭エピグラフより

 是非この貴重な “rendez-vous”の時をともにお楽しみあれ!


◉ 岩永氏は現在、医歯薬出版書籍編集部所属ですが、以前『週刊 医学のあゆみ』の編集を担当されていました。
 

 会のまとめ



第7回サイファイ・フォーラムFPSS、盛会のうちに終わる(2022.10.2)


第7回サイファイ・フォーラムFPSSは10月1日、多くの方の参加を得て無事に終えることができた。お忙しいところ参加していただいた皆様に改めて感謝したい。会はプログラム通りで進行、活発な議論が展開した。

1)矢倉英隆: シリーズ「科学と哲学」① ソクラテス以前の哲学者(発表スライド

今回から、コロナ前に武田克彦氏からいただいた助言を取り入れ、会の一貫性を保つために、シリーズでお話をすることにした。テーマは「科学と哲学」とし、科学を哲学者の思索の跡から考え直すことにした。それは必然的に哲学史を見直す旅になると考えたからである。また、その過程が科学と哲学の新しい関係を探る切っ掛けとなることも願っている。

今回は、シリーズを始めるにあたっての考え方を示した後、ソクラテス以前の哲学者の思索を取り上げた。具体的には、タレス(c.624 BC-c.546 BC)、アナクシマンドロス(c.610 BC-546 BC)、アナクシメネス(585 BC-525 BC)、ピタゴラス(c.570 BC– c.495 BC)が考えたことを振り返った。ここで問題にされたことは、それまでの流れとは異なる、一つの要素でこの世界の根源を考えるようになる過程は一体どのようなものだったのかという疑問である。もう少し具体的に探索することが必要であると感じた。



2)渡邊正孝: 変性意識と無意識(発表スライド

渡邊氏は変性意識と無意識について、これまでの研究成果も交えながら詳しく説明された。変性意識とは、薬物、睡眠、催眠、感覚遮断、脳の電気的あるいは磁気的刺激により、意識が変容した状態を言う。その中で、夢が最も身近な変性意識だという。例えば、明晰夢というのがあり、自分が夢を見ているという意識を持ち、夢の内容を変容することができるものである。これは個人的な経験だが、「今確かに夢を見ている」と明確に意識していることがあるが、まだその内容を思うようにはできていない。それから瞑想のような状態には日常的にいる。この他に、宗教体験、臨死体験、体外離脱体験などがあるようだが、これらを除くと、比較的多くの時間を変性意識の中にいると言えるのかもしれない。

2つ目のテーマは無意識であった。例えば、呼吸、歩行、運転などは無意識に行われているとされる。また、不注意盲(何かに注意を向けることで、本来は見えているはずのものが見えなくなる)や変化盲(見ているはずなのだが、途中で起こっている変化に気付かない)などは、よく体験する現象である。興味深かったのは、特定の問題に集中せずに「心を彷徨わせる」マインドワンダリングの時に独創的アイディアが生まれるということ、そしてそこに関与しているのがデフォルト・モード・ネットワークであるという指摘であった。時間に追われている現代人は、マインドワンダリングするための暇もなくなっている可能性があるので、創造的な思考をする機会を削がれているのかもしれない。個人的な経験では、この状態はいろいろなものの繋がりを発見するために有効なので、現代人に欠けていると言われる全体的な思考を回復するためにも必要になると確信するようになっている。以前にこのテーマでエッセイを書いているので、以下に貼り付けておきたい。


もう一つ興味深かったのは、「プライミング」(先行する事柄が後続する事柄に影響を与える)や「ナッジ」(何気ない遠回しな表現により、ある行動や意志決定に導く)が現代社会のいろいろなところに浸透している可能性であった。つまり、我々は日常的に何かによって無意識の内に操られながら生活していることが示唆される。それを回避することができるのかどうかは分からないが、このような問題が存在するということは意識しておきたいものである。

詳しい発表内容は「発表スライド」としてリンクされているので、参照していただければ幸いである。







3)岩永勇二: 『免疫学者のパリ心景』発刊記念トークセッション!(Poster

岩永氏は『免疫学者のパリ心景』の編集を担当されたところから、本書の特徴を中心に話を進められた。まず、文章の質?美しさということが問題にされたが、著者としてはどうしてそのような印象を与えるのか分からない。ただ、注意している点として挙げたのは、自分の頭の中にあるイメージをできるだけ正確に言葉に移し、文章内あるいは文章間の論理の流れに乱れがないようにしていることである。そこから浮かんだ考えは、正確さや論理性は美しさに繋がるのではないかということであった。この認識が生まれたのは、哲学に入り、いろいろなものを読み、書くという作業の中だったように思う。一つの考えが固まってきた時、そこにあるものをイメージし、どのような言葉に置き換えればそのものを的確に表現できるのかという問題意識で事に当たっていることに気付いたのである。さらに、それまで何のことかよく分からなかった「論理の流れ」ということの意味も迫ってきた。今では、文章を書く時の重要な規範のようなものになっている。

このことに関連して、内容(事実や考え)に新しさは感じなかったが(爆笑)、それが少し違って見える文章であるという指摘があった。これは重要な点で、古来から議論されてきていることである。以前にエッセイとして書いているので、以下に貼り付けておきたい。

 「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」、あるいは科学の言葉医学のあゆみ、2016.3.12

この言葉は、「意」(アイディア)は真似しやすい(どこかにある情報を覚えればよい)が、それをどう表現するのかは容易ではないという意味で、そこに長い鍛錬を経た芸・術が入り込む余地がある。科学全盛時代の現代では、このことが忘れられ、「姿」に心を配ることなく事実だけを発することが日常化している。科学者も含めて留意しなければならない点になるだろう。

本書の批判として聞こえてきたのは、現代が抱える問題は指摘されているが、それについての明確な考えが書かれていないということ。それと関連するのだろうが、本自体のメッセージ性が弱いということであった。これらの指摘はおそらく当たっているのだろう。その原因として、現代の問題についての著者の考えが煮詰まっていないことが挙げられる。そのため本書では、例えば「『現代の超克』のためのメモランダム」として、これから考えるべきいくつかのテーマを挙げるに止めている。帯にもあったが、本書を「方法序説」として捉えていただき、著者が発見した思考のやり方を示した書と理解していただけると幸いである。それからメッセージ性に関しては、直接的に読者に訴えかけるようなスタイルを嫌う性向がどこかにあるような気がしている。いずれにせよ、この「方法序説」をもとに新しい方向性で思索を拓いていくことも求められるだろう。

他にも貴重な感想が出ていたが、ここでは省略させていただきたい。コメントの中にその一部を見ることができる。最後に、編集の任に当たられた岩永氏に改めて感謝したい。





参加者からのコメント


 昨日は、貴重な機会をいただきありがとうございました。

1)矢倉英隆: シリーズ「科学と哲学」① ソクラテス以前の哲学者

哲学者の思索の跡から科学を考え直すことで哲学史を辿るというアプローチは、哲学史を科学史として読み替えるという含意があり、大変、興味深いものです。「起源」「構造」「多様性」という3つのキーワードが印象に残りました。世界の「多様性」に気づき、それをどう説明できるのか、という問いを立てたところが、ソクラテス以前の哲学の大きな功績の一つではないでしょうか。気づきと説明が哲学の始原にあったことに現代にも通じるものを感じます。興味深いのが、気づきの対象が、なんらかの、生活上の問題ではなく、好奇心によるものだったという点です。哲学・科学・詩の原点のような気がします。

ミレトス学派の、多様性を、その起源が存在すると前提して、起源を探る試みは、存在の起源にその本質が宿るという考え方の中に、現代哲学においても、継承されていると思います。そこには、すでに、存在を時間の経緯の中で思考するという時間の感覚があり、歴史的思考の萌芽とも言えるのではないでしょうか。他方、ピタゴラス学派の多様性の本質ではなく、多様性の「構造」を解明しようとする考え方は、大変興味深く、よく知られているように、アインシュタイン相対性理論とリーマン幾何学の関係のように、このピタゴラスの考え方は、数学的言語が、自然現象を厳密に記述するときの有効な道具になることを示した最初期の事例という気がします。物理学と数学の相互作用の原点にピタゴラスがいたとも言えるかもしれません。

他方、哲学者の思索の跡から科学を考え直すことで哲学史を辿るというアプローチは、何らかの生活上の問題解決と好奇心による探求が、二つの糸のように、常に寄り合わさってきたということも思い出させます。つまり、哲学者・科学者の好奇心は、実用的な面と切り離しがたくある、ということです。このとき、<技術という問題>と<労働という問題>が、自然と社会のインターフェースとして立ち上がってくるのではないでしょうか。

2)渡邊正孝: 変性意識と無意識

この講演は、私には大変刺激的でした。私は、ジャーナリズム関係の仕事をしている関係で、いろいろ、現代の問題について調べる機会があるのですが、個人に対する問題だけでなく、国家や社会全体に対する問題として、<支配>という現象を考えたとき、戦後、世界的に、dominanceからmanipulationへ支配のあり方が変わったと思っています。たとえば、広告会社の制作するCMや大手メディアの偏った報道の在り方、米国が日本の国家官僚を操作するために設置した<日米合同委員会>などの諸制度は、個人や国家をmanipulateしています。プライミング効果や単純接触効果、ナッジなどの心理学的手法も、こうした支配の文脈でとらえる必要があると思います。

逆に言えば、何らかの社会的選択における、その操作主体とその目的を明らかにする必要が常にあると思うのです。それが、渡邊さんのおっしゃる結論「(知覚による選択における)自由意志は幻想である」という命題の示す要請のような気がします。これは、物理的な抑圧による自由の圧殺とは明らかに異なる事態です。それは、操作による「見せかけの自由」という問題です。これまでのように、「自由」は「批判」と一体になって初めて成立する条件が整うということに変わりはありませんが、その批判は、非常に複雑で難しいものになると思います。それは、ジャーナリストや社会哲学・社会学者の仕事になるのでしょう。そして、そのmanipulationという問題は、比較的目に見える諸制度によるものや情報操作といったもの以外にも、無意識のレベルまで作用している「社会体制の再生産」という問題があると私は思っています。これは不可視です。そして無意識です。

意識・無意識に関わらず、manipulationという問題は、困ったことに、客観的に実証しにくい、という面があり、そのため、「陰謀論」で片づけられてしまい(実際、そのような議論も多くあるわけですが)、また、操作主体の側もそれを狙って、「操作の操作」を行っているという現実があります。この意味で、心理学的な実験をベースにした研究は貴重だと思っています。

3)岩永勇二: 『免疫学者のパリ心景』発刊記念トークセッション!

矢倉さんのサイファイ・カフェに惹かれるのは、その明るさです。きのう、矢倉さんの発言で印象的だったのは、「使命感というのは嫌い」ということと「哲学が人生の問題にどこかで触れていないと意味はない」というものでした。前者は、狭い意味での「倫理観」を退けていますが、後者は、広い意味での「倫理学」で回収しています。

「哲学が人生の問題にどこかで触れていないと意味はない」

これは、その起源を考えれば、科学(学問)にも本来、妥当するはずです。これらは<自由>ということなのではないでしょうか。自由は明るいもののはずです。この明るさはまた、「知識の民主主義的な在り方」に自覚的な矢倉さんのスタンスにも起因すると思っています。


 先日28日に続き、10月1日のサイファイ・フォーラムにも参加させて頂きまして本当に感謝です。近年、生活の為に働くことに必死でしたが、働きながら、自分を幸せにするための知的な行いや学びをする必要性を感じていたので、サイファイ・フォーラムという素晴らしい機会を与えて頂き心より感謝致します。

矢倉先生と出会ったのは、約束されたものだったのか?と思うと感慨深く感じています。そして、年齢を経るということの素晴らしさを教えて頂いたようにも感じています。定年を迎えてから、パリのソルボンヌ大学に留学するという、かなり高いハードルにトライし、そこで学んだことを、日本の一般の皆さんに公開してくださったことは、今思うと心に染みる感動そのものです。さりげなくそのようなことが出来る矢倉先生の素晴らしさを改めて今回感じました。また、決して押し付けることは無く、あくまでも、常にリラックスして、さりげない姿勢が常に哲学をし世界を俯瞰しているからなのでしょうか?

昨日は、渡邊正孝先生の「変性意識と無意識」も非常に興味深かったですし、特に、不注意盲とか変化盲とかですね・・・科学の進歩の流れがあまりにも速くなり、自分の意思とは関係ない事柄が、まるで自分の考えで動いていると錯覚してしまう・・・ということも今後は注意深くしなければならないと思えました。今朝、ニュースでやっていましたが、台風で静岡の清水市が水没しているフェイク動画がネットで出回っていたそうです。

また、『免疫学者のパリ心景』の出版担当の岩永勇ニさんのお話も矢倉先生のお人柄を知ることが出来て面白かったです。岩倉先生の後半の質問もなるほどでした。しかし、いつも正直に、矢倉先生はご自身の考えを皆さんに伝えていらしたところも大変納得できるものでした。


昨日は7-FPSSを開催していただき有難うございました。とてもよい時間を過ごすことができました。

『免疫学者のパリ心景』では、矢倉先生の思索の遍歴と先生のなかで構成されつつある思想が私なりに見てとれ、大変興味深く拝読しました。とても読みやすい本でした。多くの科学者の方々にこの本を読んでいただくことで、科学者の哲学的思考の喚起がなされればいいなとおもいました。それがとりもなおさず、科学の形而上学化の端緒になると考えるからです。

私は、これまでのFPSSでの様々な議論を通じて、結局、科学の形而上化は、科学者自身の考えの枠を拡げることによってしか実現し得ないと考えています。この本の中で、本を読むことは実験することに似ていて、自分の考え方の是非を確かめることという主旨の引用がありましたが、まさに多くの科学者の方々がこの本を通じて、自分の考えを検証し、思考の枠を拡げてていただきたいと思いました。この貴重な資料を作成いただいた矢倉先生、そして資料の実現にご尽力いただいた、岩永勇二氏に御礼申し上げたいと存じます。

渡邊正孝先生の「変性意識と無意識」について、複雑な意識と無意識の関係を脳科学でアプローチした一例についてお話しいただきとても参考になりました。同時に、この分野の現状も知ることができ、一層の発展が必要と思いました。意識と無意識は、認識の集積で形成されるようと考えられますが、矢倉先生の最小の認識「ミニマル・コグニッション」の提唱は、哲学的な認識の感度をどこまで拡げられるかに通じるように思いました。


◉ 昨日はサイファイフォーラムFPSS、ありがとうございました。また、スライドも送っていただき感謝です。以下、感想です。

「科学と哲学シリーズ」: 自然哲学者のことは知っているつもりでしたが、タレス、アナクシメネス・・・と改めて学ぶことで、自然界を凝視し、推論を重ねた彼らに、改めて血を通わせたような気が致しました。私がもし、この世界のアルケーは何?と問われたときに、私は何と答えるのか。なぜこの地域に「論理」を追求する知的成熟がみられたのか?・・・と興味が尽きません。

渡邊正孝先生の「変性意識と無意識」: 脳という物は、なんと面白いのか、と実感いたしました。昔、立花隆の『臨死体験』を読んで以来、興味をもっていました。脳に関してさまざまなことが解明される一方、人間の死をどのようにとらえるのか、という問題とも直結するので複雑な気持ちではあります。日本において脳神経の研究を開始した時期は明治期以降なのでしょうか?研究史にも興味を持ちました。

岩永勇二さま「発刊記念トークセッション!」: 本をお書きになった矢倉先生には当然、「ありがとうございました!」なのですが、「よくぞこの本を作ってくださった」、と岩永さんにも感謝を表明したいです。私も、ブログ時代の矢倉先生の実名も存じ上げないときから先生の文章と写真が好きでした。個人的な感覚ですが「医学のあゆみ」のエッセイを読むと、小船に揺られてどこかへ連れていかれていくような感覚を味わっていました。哲学以外の現地の方とのちょっとしたエピソードも楽しく、「ああこのエッセイ、単行本になればいいのに」と思っていたら、その通りに実現。表紙の白に青、地中海ギリシャのような配色も素晴らしく装丁のディオゲネスと皇帝の絵、タイトルの文字も最高なので、飾りたくなります。たくさんの人に手に取って読んでもらいたいです。


 まず矢倉先生のご発表ですが、やはりタレスのことを一番に思い出します。この世の何かの対象(生物、天体、地震など)に出会うと、一部の人はそれはどのようなものかと見極めようとすると思います。ただそのようなことをしていればいつか自然にタレスが放った「この世のもっとも本質的なものは何か」という問いが生まれるわけではない。その問いは「思考のジャンプであり」、それを発したときに自然哲学が始まったと言えるのではないでしょうか。今後の先生のシリーズ楽しみにしています。

渡邊先生のご発表は、心理学の興味ある事柄を幅広くビデオなども用いてたいへんわかりやすくお話していただいたと思います。最後の方で、先生のご専門のごく一部ですがお話もされて、それは存じ上げなかったことで、勉強になりました。そのご研究が新聞などのメディアにも取り上げられ、社会的にも意義ある研究とされたのも当然のことと思います。

最後の矢倉先生の御本についてでしたが、哲学者としての先生が果たすべき事柄ということに話がいきました。私の考えですが科学者が気づいていない大事な問題に哲学者が問いを投げかける、特に科学者が特に意識せずに前提としていることを明らかにしてそれについて問題にする、それが矢倉先生のような哲学者に期待されていることではないかと思います。AIについてのような今問題になっていることに限らないいろいろな話題の1つでもそういう問いを立てていただければと期待しております。


 










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