14-FPSS





第14回 サイファイフォーラムFPSS



日時: 2025年7月12日(土)13:00~17:00

会場: 日仏会館 509会議室



〒150-0013 東京都渋谷区恵比寿三丁目9番25号


会費: 一般 1,500円、学生 500円

(飲み物は各自ご持参ください)



参加を希望される方は、以下まで連絡をいただければ幸いです

連絡先: 矢倉英隆(she.yakura@gmail.com)

よろしくお願いいたします



プログラム 


(1)13:00-14:00 矢倉英隆

    シリーズ「科学と哲学」⑧ プラトンと医学

今回は、プラトンが医学をどのように考えていたのかをテーマにして省察する予定です。前回紹介した『ティマイオス』に記述されている人体の解剖学や生理学とはどのようなものだったのか、心身二元論を唱えるプラトンは医学的視点から魂と身体の関係をどのように見ていたのか、医学と倫理との関係、さらに医学と社会・国家との関係をどのように考えていたのかなどの視点からプラトンの思想を見直します。


 
(2)14:0015:20 武田克彦

    神経心理学の方法

病気や事故などで脳が損傷されたため言語・行為・認知・思考・記憶・注意等の障害が生じることがある。それを総称して神経心理学的症状とよぶ。これらを研究する分野である神経心理学に対しては、「実体のない学問である」とか「今のように言語でそれぞれの症状が規定されるのではなく、いつか物質(DNA、粒子)の言葉で記述される神経心理学が新たに作り直されなくてはならない」などという言葉が投げかけられることがある。現代の風潮として、ある学問があまりに記述的で現象にとらわれていると判断されると、そのメカニズムを論じる段階に至っていないと考えて、それを科学的でないとみなすところがある。

この論考では神経心理学の方法として3つの方法を紹介する。1は還元主義的な方法である。還元主義的な考え方は、たとえばデカルトの「ものを知るには最小の単位に分けよ」という考えに由来する。心理学と生物学との間に階段をかけるという研究の1つに、脳機能マッピングの研究などがあり、その研究方法などを述べる。ただこの還元主義的方法は、脳から心へという一方向性とみなされがちであるが、心(意識)から脳の物理学的へという方向もあり、相互作用的であることを述べる。2は、神経心理学それ自身のレベルでの研究であり、基本的でないレベルで重要な規則性を確認することからはじまって、基礎をなすより基本的なメカニズムを理解することへと進む研究がそれである。代表的なものとして、スペリーによる分離脳の研究を取り上げる。さて行動の理由が自然科学的な因果法則的説明だけで述べられるとすると、一人称としての行為者の主体性が三人称的な脳の因果的なプロセスに還元されてしまうことになる。人間科学に固有な方法として理解・解釈の方法があるが、ここでは一人称の観点に立つ「了解」を取り上げる。了解とは、意味的関連あるいは個人が他者の心理状態や心理的出来事の意味に対して持ちうる心理的直感のことである。3は、この了解を神経心理学に持ち込んだ方法である。



(3)15:3016:50 市川 洋

    社会の中の科学と科学コミュニケーション

我が国を含めた世界の科学技術を振興させるためには、社会が科学技術振興を支持・支援する仕組みと、科学技術開発研究を担う科学技術研究者・機関が社会の負託に応える仕組みが互いに相補的に噛み合う必要がある。しかし、最近では、論文捏造等の研究不正件数が増えるとともに、陰謀論やニセ科学に染まる人も増えている。また、選挙投票に際して、事実や論理よりも「自分」の感覚・感情を重視する人々が多数であるという現実を兵庫県知事選挙で目の当たりにしている。これらのことは、科学研究について関心を持たない人、「科学的な態度」を身に付ける必要性を感じていない人が社会の多数を占めていることと関連しているように思われる。このような状況が続くと、科学技術の発達は停滞する。

今回の発表では、2000年代から、海洋科学研究と社会を結ぶ海洋科学コミュニケーション活動をおこなってきた立場から、変わりゆく現代社会における科学と科学コミュニケーションのあり方についての私論を述べる。



会のまとめ





前日の雨のせいか、比較的凌ぎやすい日の開催となった。欠席者が3名出たが、参加されたのは写真の9名で、若い方が2名(内1名は初参加)であった。このように新しく若い知性が参加されると、会は活性化するように感じた。これからも新しい参加があることを願っている。今回も3つの発表があったが、ここで振り返っておきたい。

(1)矢倉英隆: シリーズ「科学と哲学」⑧ プラトンと医学(発表スライド

この発表の前に、新しい方のためにサイファイ研究所ISHEの活動について説明があった。最初に、これまでのあゆみについて振り返った後、昨年暮れに出てきたISHEメンバーという立場について触れられた。最近の動きとして、新たに生命倫理について専門家を交えて議論する場「サイファイ対話CoELP」(Conversations on Ethics of Life with Philosophers)を始めること、それからサイファイ研究所での活動の中から生まれた思想の塊を書籍として残すためのプラットフォームとして「ISHE出版」というレーベルを立ち上げることにしたことが発表された。第1回のCoELPについてはすでに計画されていて、12月6日(土)午後、中澤栄輔先生(東京大学)をお招きして、生の終わりの倫理について議論する予定である。詳細は、こちらをご覧いただければ幸いである。

さて、8回目を迎えるシリーズ「科学と哲学」だが、今回はプラトン(427-347 BC)の2回目で、「プラトンと医学」をテーマとした。プラトンは生涯に亘って医学に興味を持ち、政治や社会を論じる際に医学をよく参照している。例えば、


などが挙げられる。

プラトン哲学の特徴として、感知できないイデアの世界と、知覚できる動いている模倣の世界という二元論があり、本質、真理に至るためには感覚では不十分で、理性を用いなければならないとする考えがある。この見方は、プラトンは超越性を持つ「イデア」だけを重要だと考えていたと思われがちだが、宇宙や人間やポリスを理解するために彼が発見した哲学的方法は、職人や医者からのものであった。イデアとは手の届かない天空に在る球体のようなものではなく、哲学の現場で使う道具として実在するものだったのである。後にも触れるが、感覚界の重要性を十分に心得ていたことになる。

少し横道に逸れるが、このことに関連して自らに引き付けて考えると、わたしは科学から哲学に入ったが、科学と言うのはわたしにとっての感覚界に相当し、そこから霊感を得て哲学しようとしたとも言えるだろう。最初から哲学に入るということは、感覚界を知らずにいきなりイデア界に足を踏み入れる状態に近いのではないかと想像されるが、その道を歩んでいる方はどのように考えているのだろうか。

さて、発表では、プラトンの対話篇から医学に関連した言説をいくつか引用している。詳細は発表スライドを参照していただければ幸いである。例えばゴルギアス』において、魂と身体のための技術を次のような対比でソクラテス(c. 470-399 BC)に説明させている。



身体の技術には、体育術と医術があり、それに対応する魂の技術(政治術)には、それぞれ立法術と司法がある。体育術と立法術は正常な状態を維持し増進する場合に使われ、司法と医術は異常な状態を正常まで回復させるものである。ここで注意を要するのは、これら4つの術のもとに潜り込み、そのもののふりをする迎合というものがあることである。これらは最善を無視して快いことだけを狙っているので、醜いと主張している。具体的には、医術のもとには料理法が潜り込んでいるが、これは理論的な知識を持たず、それぞれを提供する理由を述べることができない(テクネーの特徴を持っていない)。同様に、体育術のもとには化粧法が忍び込んでいるが、体育によって自己本来の美を蔑ろにさせ、借りものの美を我が物のようにさせる。司法術における料理法に当たるのが弁論鬱であり、立法術における化粧に当たるのがソフィストの術であるとしている。

国家』においては、「正義」と「不正」を、「健康」と「病気」という対比と重ね合わせて論じているところがある。それによれば、健康とは、身体の中の諸要素を相互にコントロールされるような状態に落ち着いていることであり、その状態を作り出すことができない場合に病気となる。他方、正義とは、魂の中の諸部分を自然本来の在り方に従って相互にコントロールされるよう落ち着かせることであり、不正が生まれるのは、それらの部分が自然本来の在り方から離れた状態になるからである。さらに、身体は魂を優れたものにすることはなく、優れた魂はその卓越性によって身体を優れたものにするとしている。身体よりは魂に優位性を持たせているように見える。

ティマイオス』において、身体の生成についてかなり詳細に論じられているが(発表スライド参照)、「・・・するために」このようになっているという目的論的説明が多くなっている。それから神聖な魂の場を護るために、情念や欲求が宿るものはそこから離すように配置したことも強調している。体腔下部には余分な飲食物を入れる腸をぐるぐる巻いたのだが、それは食物がすぐに出て行って食欲を刺激し続けると、哲学や教養を求めることをしなくなるからだという。興味深い説明である。

病気の原因として挙げているのは、身体を構成する四元素(土・火・水・空気)のアンバランスや本来の場所からの移動、生成の順序の違いなどである。エンペドクレス(c. 490-c.430 BC)の四元素説ヒポクラテス(c. 460-c. 370 BC)が信じた四体液説の影響を受けている可能性がある。そこから導き出される心身の健康法は、体と魂の均衡を保つことである。体の健康だけを考えても駄目ということになる。

ティマイオス』の結びは、以下のようになっている。
死すべきもの、不死なるものを取り入れて、この宇宙はこうして満たされ、・・・目に見える生きものとして、理性の対象の似像たる、感覚される神として、最大なるもの、最善なるもの、最美なるもの、最完全なるものとして、それは誕生したからです。そして、これこそ、ただ一つあるだけの、類なき、この宇宙に他ならないのです。(種山恭子訳
この世界は理想的なものとして出来上がっていると謳い上げて終わっている。そこに向かって作られたとする目的論的思考(志向)が見られる。この傾向はパイドン』において、アナクサゴラス(c. 500-c. 428 BC)への失望として表明されているものとも通じる。アナクサゴラスが万物を秩序づけているのは理性(ヌース)であると書いているので、ソクラテスはどうして最善な状態になっているのかを教えてもらえると思い、大いに期待した。しかし、アナクサゴラス(自然学)は原因を物質的なところに求め、なぜ最善になっているのかという真の原因については語らなかった。アナクサゴラスの科学は、プラトンの弟子のアリストテレス(384-322 BC)の言う目的因を問題にしなかったということになる。プラトンは医学にテクネーの地位を与えた。なぜなら、善に当たる「健康」を目的として追求しているからであった。

プラトン哲学のもう一つの特徴は、社会や宇宙を生きた有機体(人体)になぞらえて論じるオーガニシズム(社会有機体論)になるだろうか。このようなプラトン哲学に対する批判も出されている。その一つがカール・ポパー(1902-1994)によるもので、全体の安定を優先するために部分に負担がかかり、個人の健康より国家の健康に重点を置き、法の下での平等は敵であるとし、全体主義との親和性があるという批判である。魔術的力に屈した変化を拒む 「閉じた社会」から、批判能力が解放された 「開かれた社会」への移行に価値を見出したが、ここから「閉じた社会」に逆行させるのが全体主義であるとして、その根源がプラトンの哲学にあるとした。この問題については次回にさらに議論することにしたい。


(2)武田克彦: 神経心理学の方法

この発表では、物質ではなく言語で規定されるあやふやで実体のない学問と批判されることもある神経心理学の専門家として、現代科学が用いている還元主義的手法を重要なものだとしながらも、それとは異なる方法を模索する過程が紹介された。

まず、ギリシア神話では、プロメテウスが人類を創造した際に、その体に魂を吹き込んだとされているが、そこで吹き込まれたのは高次脳機能だとの解釈を示された。その高次脳機能の障害に向き合うのが神経心理学と言うこともできるだろう。高次脳機能障害とは、病気や事故などで脳が損傷されたために生じる言語・行為・認知・思考・記憶・注意などの障害のことで、失語失行失認を含んでいる(行政的には、この3つは含まれない)。この中の失語という神経心理学的症状の重要性について、実際の症例で説明があった。それは失語の症状がうつ病の症状と間違われ、脳梗塞によるものであることが見落とされた例であった。

神経心理学の方法として、以下の3つに分けて話が展開した。

1)説明: 還元主義的方法について
2)解釈: ロジャー・スペリー(1913-1994)の研究について
3)了解: 患者の内観と脳コンピュータインターフェース(BCI)について

1)説明について。神経心理学を進める上で還元主義的考え方は重要であり、生物学においては進化論を無視できない。進化論に合致しないものは、神経心理学においても認めるわけにはいかないという立場を採っているとのこと。ここで進化論についての説明があった。エルンスト・マイヤー(1904-2005)によれば、ダーウィン(1809-1882)は当時の基本的な信念の一部に挑戦したが、それらの4つはキリスト教の教義の柱であった。すなわち、世界は不変であるという信念、神が世界を創造したという信念、賢明で善なる創造主が設計したという信念、創造におけて人間は特殊な地位を占めるという信念である。その他にも、本質論、自然の因果的解釈、目的論などにも挑戦した。

心理学における還元主義的な研究として、脳機能マッピングがある。そのために用いられる方法として、核磁気共鳴画像法(MRI)や機能的核磁気共鳴画像法(fMRI)などがある。fMRIでは、特定のタスクをさせた時に一過性に活性化される脳領域を同定する計測法で、活性化された部位では脱酸化ヘモグロビンが減少すること(BOLD効果)を指標に測定するものである。

具体的な例として、「消去現象」(extinction)が取り上げられた。これは感覚刺激が一側だけの場合は正常に反応できるのに、両側同時に刺激を与えると片側(損傷半球の反対側=症状が見られる側)の刺激を認知できなくなる現象で、体性感覚、聴覚、視覚で見られる。そのメカニズムとして、Marcel Kinsbourne (1931-2024) の仮説、すなわち、これは感覚障害ではなく、健常な側から対側への抑制によるという説を証明する実験結果が紹介された。

2)解釈: ロジャー・スペリーの研究は、「物質が精神を生み出す」という還元主義的な見方だけでは説明できない、精神(心)が物質(脳)に対して逆向きに影響を与えるメカニズム(下向きの因果作用)の存在を示唆している。この考え方は、物質と精神の関係を単純に一方向の因果関係として捉えるのではなく、より複雑で双方向的な相互作用があるという主張になる。

同様の主張をしている人にエリック・カンデル(1929-)がいる。彼はアメフラシを用いた生理学的研究を行い、学習(習慣化や感作)が「神経細胞間のシナプスの結合強度」の変化によって生じること、すなわち、新しい心的活動が、物理的なニューロンの構造変化をもたらすことを示した。精神から物質へという逆向きの作用が実証されたことになる。精神分析医でもあるカンデルは、精神療法(精神分析)が神経細胞に影響を与えると考えたようである。精神活動が脳に解剖学的な変化を生み出すというテーゼは、その変化が新たな精神活動を生み出すところに導くという予測不能は連鎖の可能性を含んでおり、われわれの思索を強く刺激する。

スペリーのもう一つの功績として、分離脳(スプリット・ブレイン)を用いたものがある。左右の脳はいくつかの交連線維によって連絡されているが、脳梁は2億本以上の神経線維から成る最大の交連線維である。難治性てんかんに対する緩和治療として脳梁の離断術が行われるが、この患者を調べることにより、左右の半球の機能を別々に検討することができる。そこから明らかにされたことは、左右半球は独自に情報処理を行うこと、すなわち左半球は主に言語や分析的思考、右半球は空間認識や直感的・創造的な課題を得意とすること、しかし右半球にも限定的ながら言語機能があること、2つの独立した意識が存在するような反応が見られることなどである。この研究に使われた方法は神経心理学の臨床でも使われているもの(「解釈」という方法)共通するところがあり、さらに深めていきたいとのことであった。

3)了解: 患者の内観とBCIについて。ある現象の原因について、少なくとも2つの方法で明らかにできる。1つは自然科学がやっている因果論的説明であり。もう1つは人間科学に固有な理解の方法である。前者の説明は客観的に検証可能であるが、後者は個人が他者の心理状態の意味に対して持つ心理的直観のことで、「了解」という方法とされる。これは例えば、患者が内的に体験していることを内的に了解すること、ミメーシス、一体化のこと、自分自身を他者の位置に置く(共感)、患者と治療者の区別がない状態、参加する観察などと形容される。つまり、対象の外から検討する方法と対象の内部に入って観察する方法があり、発表者は後者も重視する立場を採っている。

この2つの立場の違いは、前発表にあった「アナクサゴラス(自然学)へのソクラテスの失望」の背後にあるものとつながるだけではなく、ベルクソン(1859-1941)が言う対象を外から見る分析(科学が行う)と、対象の中に入り一気に全体を捉えてしまう直観(哲学が行う)との対比とも重なっている。

ここで岡崎乾二郎(1955-)という美術評論家が2021年に脳梗塞を発症した後の症状と考察が紹介された(『頭のうえを何かが Ones Passed Over Head』(ナナクロ社、2023)に詳しい)。その中にあったエピソードとして、それまでできなかった浴槽を跨ぐことがある瞬間にできるようなったことに対して、「自分の意思を身体が追い越して、その身体の教えを受け入れて、それを自分の精神、身体として遅れて内面化していくという感じ」であり、「リハビリは自分自身を組み替える経験だ」との解釈をしていることを取り上げていた。病気を体全体の作り替え(remaniement)であり、新しい規範の獲得・創造であると捉えたジョルジュ・カンギレム(1904-1994)思想を想起させるところがある。

ここから武田氏は、脳コンピュータインターフェース(BCI)とのつながりを想起し、話を進めた。BCIとは、脳の神経細胞が発する電気信号や血流の変化を電極やセンサーで計測し、その情報をリアルタイムでデジタル信号に変換。この信号をコンピュータが解析し、外部の機器(ロボットアームなど)の操作に反映させる技術である。この過程においても、脳がその活動により機械を操作するという一方向だけではなく、操作を繰り返すうちにBCIにより脳自身の機能や構造も変化するようになる(神経可塑性)という双方向に影響し合うことが明らかになってきた。これは被験者の内観からも確認できるようであり、上述の双方向の制御というテーゼが確認されたものと言えるだろう。このような了解という方法を神経心理学でも目指していきたいとのことであった。


(3)市川 洋: 社会の中の科学と科学コミュニケーション(発表スライド

科学技術振興のためには、それを支援する社会の仕組みと、実際に研究を行う研究者・研究機関の仕組みが噛み合う必要がある。しかし、最近の状況はそこからの逸脱を示す事例が増加しているという認識のもと、この発表では、急激に変わりゆく現代社会における科学および科学コミュニケーションのあり方について、以下の4つのテーマで議論が展開した。

1)科学と社会:ブダペスト宣言(1999年)から考える
2)急激に変わりゆく社会における科学のあり方
3)急激に変わりゆく社会における科学コミュニケーションのあり方
4)社会のこれから

1)科学と社会

両者の関係を考えるための指標として、四半世紀前に採択されたブダペスト宣言:科学と科学的知識の利用に関する世界宣言(1999年7月1日採択)を取り上げ、検討された。まず、前文第1節にある以下の言葉が強調された。
科学は人類全体に奉仕するべきものであると同時に、個々人に対して自然や社会へのより深い理解や生活の質の向上をもたらし、さらには現在と未来の世代にとって、持続可能で健全な環境を提供することに貢献すべきものでなければならない。
前文の全体を読むと、現代の諸問題を解決するためには、すべての科学(自然科学、社会科学、人文科学)の活発な協力の必要性、科学知への平等なアクセス、科学の実践や応用に当たって倫理的省察の責任、政府、市民社会、産業界の科学への関わりと同時に、科学者の社会の福利への関わりの必要性、人類にとどまらないあらゆる生命の存続などが語られている。その上で、以下の4項目が宣言されている。

 1.知識のための科学;進歩のための知識
 2.平和のための科学
 3.開発のための科学
 4.社会における科学と社会のための科学

この中の第4において、科学者に対して高度な倫理基準を課し、科学的誠実さと研究の品質管理を維持するという社会的責任を要求することが書かれてあり、そこに科学と社会を結ぶ科学コミュニケーションの重要性があるとの考えが発表された。わたしは同じ節にあった「科学教育のカリキュラムには、科学倫理、歴史、哲学、そして科学の文化的影響に関する課程が含まれるべきである」という一文に目を見張った。この宣言に見合うだけのことが行われているだろうかと問うた時、お寒い状況が目に入ってきたからである。

科学と社会との関係について、次のような見方の対立があるという。1つは、科学は資金源となる社会とは無関係ではありえないので、社会の変化の影響を受けるとするもので、もう1つは、科学は自然探求という独自の世界の中で営まれているので社会情勢とは無関係でいることができ、科学コミュニケーションが社会による影響に対応するという見方である。個人的には、社会と隔離した科学はもはや存在が難しいのではないかという印象を持っている。それと、後者の見方における科学コミュニケーションが科学に従属する(あるいは科学のための)もののように見えるのも少し気になった。

ここで、ブダペスト宣言が出された当時の社会とはどのようなものであったのかについて触れた後、科学、社会、宗教の関係を歴史的に振り返った(スライド参照)。宗教が強大な力を持ち、科学や社会に影響を与えていた17世紀から、科学が技術と真理で社会を支配する20世紀初頭(権威者としての科学者)を経て、21世紀には科学が社会の中で社会のために貢献しなければならない(社会貢献者としての科学者)状況になっているという見立てである。

ブダペスト宣言後の社会の状況は、混沌の度合いを増しているように見える。例えば、東日本大震災、原発事故、COVID-19などから生まれた科学・科学者への信頼の喪失、SNSの普及によるデマやフェイクニュースの拡散に見える懐疑的態度の欠如、経済格差の拡大(教育格差の固定化)があり、そこから技術や真理を象徴する科学の社会支配に対する市民の反乱が現在の状況ではないかとのことであった。

一方、ブダペスト宣言後の科学の状況は、依然として「権威者としての科学者」という認識が存続しているが、科学研究の大衆化が進行している。その中で見えてきた問題として、データの捏造、査読偽装、アカデミックハラスメントなどが挙げられる。また、研究課題が高度化、細分化、大型化が見られ、投じた経費に見合う結果が減少し、個性に基づく独創的研究が抑制される傾向が進んでいる。喫緊の問題として、生成AIをどのように位置付け、制御していくのかということが指摘された。

2)急激に変わりゆく社会における科学のあり方

社会が急激に変わってゆく中で、科学はどのように影響を受けるのだろうか。社会の影響を受けて変わる部分と変わらない部分があるという見方が提出された。社会とともに変化する部分は、何を目的に科学をするのかというところだという。つまり、以前であれば個人の内発的知的探求の欲求を源とする活動として科学は捉えられていたが、社会が変容するにつれ、その影響を受けざるを得なくなる。すなわち、外部からの研究開発要求が権威・権力、地位・名誉、金などとともに個人の研究者に提示されるようになり、組織のための研究開発という要素も入ってくると、個人の自発的欲求に基づく研究が見られなくなる。

その一方で、社会の影響を受けず変わらない科学の部分もある。それは科学という営み(方法)に関する部分で、例えば、科学的方法(仮説、検証など)、懐疑的態度(定説を疑う態度)、根拠に基づく議論による合意形成(論文公表、公開討論)、多様な価値観の尊重などは、どのような社会でも変わらずに行われる科学の方法になるだろう。もし社会の影響を受けてそれが行われないということになれば、その営みは科学と呼ばれることはないだろう。

3)急激に変わりゆく社会における科学コミュニケーションのあり方

この問題については、社会の変化に伴い変化する科学(目的の部分)と変化しない科学(基本的な方法の部分)に対する科学コミュニケーションという2つの様態が考えられる。1つは社会の影響により変化する目的についての理解を増進させ、科学研究支援者を増やすようにしていく方向性で、もう1つは変化することのない科学の基本的な考え方、方法を基盤とする社会の実現を目指す方向性である。

それから、科学に関心を持つ市民を対象に、科学振興に積極的に関わる人材を育成するという方向性と、科学に無関心で、科学的態度を身に付ける必要性を感じていない市民を対象として、科学への関心増大を図り、より多くの市民が科学に親しむ社会の実現を目指す方向性が考えられる。実際の問題として挙げられていたのは、そもそも科学に興味を持たない人をどのようにしてこの取り組みに引き入れるのかということであった。


4)社会のこれから

最後に、現代社会を複雑化(グローバル経済、多様性)、少子高齢化、経済格差拡大、地球温暖化、自然異変などによる不安や不満が溢れる社会と見た上で、これからの展望についての議論があった。これらの不安や不満を解消するためには、やはり科学的思考や懐疑的態度が重要になるはずだが、そうでない動きが目立つようになっている。最終的に目指す社会として、個を重視した社会(混乱を調整する)に対して全体主義的社会(混乱を制圧する)という対立が考えられるが、前者を重視する社会を目指すとしてもその方法論がなかなか見えてこないとのことであった。

この対立は、最初の発表にあったカール・ポパーのプラトン批判のところでも指摘された。すなわち、魔術的力に屈した変化を拒む 「閉じた社会」から批判能力が解放された 「開かれた社会」へ移行したのだが、そこから簡単に「閉じた社会」に逆行させる力が第2次世界大戦時には働いた。それが全体主義である。個を重視した社会を維持するためには全体主義の研究が欠かせないのかもしれない。

今回も、一見何のつながりがないように見えた3つの話題が絶妙のつながりを見せてくれた。次回もこのような「かそけき糸」が見えてくることを期待したい。





(まとめ: 2025年7月25日)



参加者からのコメント


◉ 「プラトンの医学」への言及の中で取り上げられたティマイオスについて、彼が精神と身体の健康性を維持する方法として「魂と体の均衡を保つこと」だとしています。心と体が相互に影響し合うこと、そして心身をバランスよく鍛錬することが健康を維持するための大原則であることをすでにこの時代によく認識されていたことに驚かされます。

急激な情報化社会では、魂と体の均衡が一層求められているように思いました。
プラトン哲学について、部分の中で全体を考える(個人の健康より国家の健康を上に置く)ことや法の下の平等は敵であるでるとしたことは全体主義に繋がるのではないかという批判がありました。これは個の解放と全体の統治との均衡をどのよう調和させるかという問題であり、健全で開かれた社会を構築することは現在に続く大きな課題であると思いました。
 
「神経心理学の方法」については、心(意識)と物質(神経系・脳)の相互作用の観点からのいくつかの興味深い研究事例を示していただきました。BCIで物質が心にそして心が物質に相互に影響を与えその結果として双方がある状態へと変化するという確認はすばらしい成果と思いました。同時に、そのメカニズムを還元的な方法でどう解明するかという点に関しては、やはりまだ飛び越せないような大きな溝があると思いました。

意識を神経心理学ではどう定義できるかという点について、武田先生は多くの科学者のコンセンサスを得られる定義はまだ存在していないだろうという見解を示されました。神経心理学が取り扱おうとする多くの心の問題の本質的な難しさがここにあるように思われました。
「了解」という他者の心の理解の方法は、医師と患者という関係性の中だけでなく、広く社会における個と個の関係性にも適用できる神経心理学の優れた方法だと思いました。自分を他者へ置き換えてみて相互の了解のもとに問題の解決を模索する。現代社会で薄れつつある個と個の関係性の構築に適用できる重要な概念でもあると思いました。
 
「社会の中の科学と科学コミュニケーション」については、現在の科学と社会の関係性が経済のための科学になっているという大きな問題点が挙げられると思います。これは経済が個々の生活に密着していることが大きな要因でもあると考えられます。どこの国でも経済効果を上げることが科学の役割でありその価値であるという考え方が大きく拡がっていて、AI開発に象徴されるような、過剰で倫理観のとぼしい競争が繰り広げられています。科学政策にもそれが反映されています。研究資金の主な供給源である国は「役に立つ」目的と具体的な成果を短期間で求めます。この短期的である種の偏ったともいえる考え方が科学研究と科学教育にも大きな影響を及ぼしています。

このような状況のもとでは、科学と社会をつなごうとする科学コミュニケーションの役割はますます大切になっていると考えられます。科学の考え方、方法、面白さ、難しさそして多くの科学者の共感の基に科学が成立していること、そして科学はどこを目指すのかなどを、どのような形で社会の人々に伝えるのか、そして多く人々の了解を得ることができるのか。困難であり科学者の努力が要求されるテーマでした。
 
大変に貴重な時間をありがとうございました。


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