9-FPSS




第9回サイファイフォーラム FPSS


日 時: 2023年11月11日(土)13:00~17:00

会 場: 恵比寿 カルフール C会議室


渋谷区恵比寿4-6-1
恵比寿MFビルB1

参加費: 一般 1,500円、学生 500円
(コーヒーか紅茶が付きます)


プログラム

(1)13:00-14:00  矢倉英隆
 シリーズ「科学と哲学」③ ソクラテス以前の哲学者-3

 今回は、根本的に対立するこの世界の見方を展開したヘラクレイトス(c.540-c.480 BC)とパルメニデス(c.515-c.450 BC)の哲学を検討します。ヘラクレイトスは、紀元前6世紀から5世紀にかけてイオニアのエフェソス(現在のトルコ)で、60年の生涯を送ったと言われています。師につかず、弟子も取らず、隠者のように暮らしながら、自分とは何かを追求しました。その結果、「この世界のすべては動きの中にあり、過ぎ去り、止まるものは何一つない」という見方に辿り着き、「パンタ・レイ」(panta rhei;すべては流れる)という言葉で表現しました。それに対するパルメニデスは南イタリアのエレア出身で、「あるものはあり、あらぬものはあらぬ。あるものは時間を超えて不変不動である」と考えました。つまり、ヘラクレイトスがこの世界の原理とした不断の変化は存在しないとする「ト・エオン」(to eon;在るもの)の哲学を展開しました。それぞれの哲学の意味するところを考える予定です。


(2)14:00-15:30  牟田由喜子
 H.コリンズ『専門知を再考する』:専門知は市民社会にどのように有用なのか?

 2017年秋のFPSS発表にて少し触れた「トランスサイエンス(科学技術社会論(STS)」の概念を、「専門知」というキーワードでハリー・コリンズの著書から、もう少し深めてみたい。この概念とは、平たく言えば、「科学に問うことはできるが、科学だけで答えることができない問題」。例えば、原発関連や気候変動、ウイルスなど、日々のニュースでも報道される諸問題は、科学者による専門知に頼ろうとしがちだが、専門知だけで解決することができない課題でもある。H.コリンズは、1943生まれのイギリスの社会学者。著書には、『解放されたゴーレム』、『我々みんなが科学の専門家なのか?』、『民主主義が科学を必要としている理由』などが邦訳されている。当日は、「専門知」という観点から、私がコリンズの著書から読み取ったことなどをお伝えしつつ、皆さまの考えと照らし、議論できたらと考えます。


(3)15:30-17:00  木村俊範
 日本のテクノロジーには哲学が無かったのか、置き忘れたのか?――一テクノロジストの疑問

 私は五十数年にわたり、~ -Technologyを専門にし、哲学とは縁もなく「右肩上がりのバブル」、「空白の三十年」を大学教員としてくぐり抜けてきたが、今や日本が先進国から零れ落ちているのを色んな場面で実感している。以前には途上国でしか起きなかった理解し難い事故や犯罪が日本企業や日本人によって起こされ、大企業も片方でSDGs等と声高に謳いつつ検査の手抜き、データの改ざん、噓八百の記者会見とやりたい放題である。本FPSSに参加し、「哲学と技術」につきハイデッガーらの思索についてお聞きし、両者が全くの無縁ではないと理解するようになったが、現在日本において「哲学と技術」をどう見るのか、専門の皆様にお尋ねしたい。

連絡先: 矢倉英隆(she.yakura@gmail.com)




会のまとめ





今回の会の第一印象は、活発な質疑応答や交流があったということだろうか。休憩時間の話し声の大きさは、これまで経験したことがないほどであった。それぞれがこれからに向けてのテーマを発見する会であったことを願うばかりである。いつものように、主宰者のレンズを通して見た会の内容を纏めてみたい。

(1)矢倉英隆: シリーズ「科学と哲学」③ ソクラテス以前の哲学者-3(発表スライド

このシリーズでは、自然や科学について省察した哲学者、科学者を取り上げ、彼らの思索の跡を基に、科学と哲学のあるべき関係を模索することを目的としている。その結果、「新しい知の在り方」が見えてくることを期待している。今回は、ソクラテス以前の哲学者で、紀元前6世紀から5世紀にかけて活躍した<ヘラクレイトスパルミニデス>を取り上げた。

ヘラクレイトスは、イオニアのエフェソスで60年の人生を送ったと言われる。彼の人生をこのように形容している人がいる。
師につかず、弟子も取らず、孤独の中に生き、考え、瞑想し、書き、真に禁欲的な生活をし、自分自身を深く探求し、知るために努めた。

彼は『自然について』(ペリ・ピュセオース)という著作を書いたと言われるが、残っているのは断片だけである。しかしハイデガーによれば、それ以降の思索家より遥かに多く思考しているという。 彼が考えた世界のアルケー(始原)は「火」で、すべては変容の中にあるとした。有名な言葉に Panta rhei(すべては流れる)があり、「同じ川に二度入ることはできない」とも表現した。このような世界は変容、生成、プロセスの世界とも言え、ホワイトヘッド(1861-1947)らのプロセス哲学に繋がるという人もいる。

ヘラクレイトス哲学のキーワードとして、「ロゴス」と「対立の統一」がある。ロゴスとは、言説とか論理、理性などの意味を持つ多義的な言葉である。彼は永遠の変容はカオス(混沌)ではなく、その背後に秩序があり、それを知る鍵がロゴスであるとした。このように宇宙を統一する原理としてロゴスを考えた最初の哲学者と言われている。

「対立するものの統一」であるが、世界は対立するものが反対のものに変化し、統一されると考えた。例えば彼は、生者は死者であり、死者は生者であると言っている。両者は別物ではなく、移行すると考えていたようである。また、「戦争はすべての父である」とも言っている。戦争は普通のこと、必然であり、対立が生命ある多様性を生み出すのであり、対立なきところには退屈な均一性しかないとまで言っている。正・反・合(テーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼ)の弁証法を唱えたヘーゲル(1770-1831)はヘラクレイトスの「ロゴス」と「対立の統一」に自身の哲学の起源を見ていたようだ。

ヘラクレイトスと対立するように見える存在論を展開したのは、南イタリアのエレア出身でエレア派の創始者とされるパルメニデスである。彼もまた『自然について』(ペリ・ピュセオース)という詩作を著したが、残っているのは断片だけである。パルメニデスが考えた自然の認識に至る主要な道は、臆見・意見(ドクサ)と真理(アレテイア)で、ドクサを徹底的に退け、純粋な思惟によるアレテイアの道を選んだ。

存在するとは在ることで、非存在は認識も表現もできないので不可能であるとした。非存在から存在は現れず、破壊も終わりもない。変容しているように見えるのは我々の錯覚であるとして、ヘラクレイトス哲学を批判した。

プラトンは若いころからヘラクレイトス哲学に親しんでいたが、感覚が捉える変容の哲学では真の認識に達しえないと考えるようになる。そして、変容を中心に据えるヘラクレイトス的世界に対して、パルメニデスが唱える変化しようのない世界を形相(イデア)として想定したのではないだろうか。

今回のヘラクレイトスとパルメニデスからプラトンへの流れの中で、哲学について改めて考えてみた。この世界には感覚で捉えることのできる領域(the sensible)と、抽象的な概念を介さなければ見えてこない領域(the intelligible)がある。哲学を我々の生活に役立つものにしようとする前に、哲学が持つ、我々を目には見えない世界に誘う力について認識を深める必要があるのではないか。個人的な経験から言えば、哲学とは、生きる上で重大な問題に直面した時に必然的にそこに引き込まれるものであり、それは永遠の知という到達し得ないものに向かう営み(まさにphilo-sophiaである)に関わることでもある。そこには我々が生きる上で欠かせない永続的で根源的な力が宿っており、敢えて有用性という言葉を使うのであれば、そこにこそ哲学の効用があるのではないだろうか

このことに関連するお話を第10回「生き方としての哲学カフェPAWL」(2023年11月14日)で取り上げたので、参考にしていただければ幸いである。






(2)牟田由喜子: 『専門知を再考する』——イギリスの科学社会学者 Harry Collinsに学ぶ「専門知は市民社会にのように有用なのか?」(発表スライド

イギリスはカーディフ大学の科学社会学者ハリー・コリンズ(1943- )が2007年に書いた『専門知を再考する』(邦訳は2020年)を紐解くことにより、専門知と言われるものについての理解を深めるのが目的である。この著者は他にも、『迷路のなかのテクノロジー』(邦訳2001)、『我々みんなが科学の専門家なのか?』(邦訳2017)、『解放されたゴーレム: 科学技術の不確実性について』(邦訳2020)、『民主主義が科学を必要とする理由』(邦訳2022)などを発表している。

まず、科学論の3つの波が紹介された。第1は、1950年頃までの科学礼賛の波で、実験、観察、反証主義を持つ特別な営みであることが強調された。第2の波はトマス・クーン(1922-1996)が『科学革命の構造』を発表した1962年以降に現れたもので、科学には再現性の難しさもあり、特別のものではないという考え方である。そして第3の波では、下降し続ける科学の権威を取り戻す科学擁護の動きが起こったという。この中にいるのがコリンズのようである。



お話の問題意識として、科学における「専門知」とは何か? 「専門知」は有用なのか? その場合の「専門知」は科学に限るのか?などを掲げ、コリンズの分析を分析された。お話の詳細はスライドを参照していただければ幸いである。ここでは、発表後に出された議論を掻い摘んで紹介したい。

● コロナワクチンに伴う死亡者(因果関係が示されているわけではないが)を例にとり、一つの政策を決定する場合、権力の側に立って進める立場と、個人の側に立って考える立場がある。この場合、どちらに軸足を置くべきなのか。

● 科学はいつも不完全なのだが、その状態で現実の問題に対応しなければならない。科学と政治の進行速度には自ずとズレが生じる。基本的には、科学者と消費者の間のどこに軸を置くべきかと言った場合、あくまでも科学知を基に考えるべきではないか。科学は問うことができるが、その答えを科学だけでは出すことができない領域として、トランスサイエンスが提唱された。この問題の原因として、科学の分野間の繋がりが悪いということがあるのではないか。自然科学だけで解決可能な場合もあるが、人文・社会科学が参加しなければ解決できない問題もある。それにも拘らず、科学者間の「対話型専門知」が成立していないことも稀ではない。

● 議論の中で出てきた「消費者」という言葉だが、現代においてはそれを一括りで論じることはできないのではないか。個人が発信できる時代になっており、個人が集まってグループを作り、その中で議論が進行している。その場合、グループ間での意思疎通が難しいこともある。どの消費者グループを消費者の代表とするのかという問題があるのではないか。

● 専門家の意見は常に理に適っていると思っていたが、それを裏切る現象が少なくない。その背後にいろいろな原因がありそうだ。実際に政策決定に関わった科学者によれば、ある時は政府側の人間として、またある時は一人の人間として専門領域に関わってきたという。政策決定の現場は、問題に関連する分野から横断的に専門家が選ばれるべきなのだが、実際には限定された領域にいる馴染の専門家(御用学者と言われることもある)から人選されている。コロナも原子力もそうだったのではないか。

● 物事を決める場合、感情ではなく科学的に行われなければならないのは論を俟たない。それから、政策決定の元になった結果を明らかにし、そこから議論することが重要になる。例えば、原子炉の経年変化については多くの不確定要素がある。強度に関して検査したのであれば、その結果を公表する必要があるだろう。

● アカデミア内では、理に適わない議論は排除されるので、それほど心配はしていない。しかし、市民や行政が入ってきて、科学との間を適切に繋ぐインターフェースがないと、何が本当なのか分からなくなる可能性がある。あくまでも「貢献型専門知」(科学に重点を置く)をしっかりすることが重要で、そのために科学の側はそれを言い続けることが求められているのではないか。

● 科学に対する一般の見方は、答えは一つで、科学者はどんな問題にも答えを出すことができるというものだと思う。この誤解を解消する必要があるのではないか。それから、部分的な知は素人でも出すことができるが、それを普遍的な知にするのが専門家になると考えている。前発表との関連で言えば、ドクサ(個人的な意見)とアレテイア(広く認められた真理)との違いになるだろうか。

● 生化学の研究者として強調したいことがある。科学の特徴は、限定した条件下での再現性である。例えば、分子間の関係は再現性良く解析することができるが、それが細胞、個体、さらに集団へと移行し、条件が増えてくると予測が難しくなる。つまり、科学は条件が決まっている時には予測できるが、他の要素が加わってくるとそれができなくなる。この特徴が広く認識されなければ、社会的な問題に発展することがある。それから、 何かが起こる可能性を定量的に示して議論することが重要になる。意思決定の現場を観察している方から、実際に定量的な議論は見られないとの指摘があった。

● 政策決定に際して、根拠の公表が十分に行われているだろうか。権力はデータを隠したがる。何かを説明するとは、結果を原因で置き換えることである。ある政策を決める時には、そこに至った源を明らかにする必要がある。この関係を常に意識しておくことが科学的精神であり、哲学的精神になるだろう。民主主義には透明性(データの公表)とそれを基にした議論が重要である。






(3)木村俊範: 日本のテクノロジーには哲学が無かったのか、置き忘れたのか?――一テクノロジストの疑問(発表スライド

発表はご自身の研究生活を振り返るところから始まった。この間に起こった日本を取り巻く状況の変化が著しく、いろいろな分野に及んでいることが示された。例えば、学問の世界では研究の質の低下が指摘された。それから、マスコミのサイエンス部門の力が非常に弱いという観察もあった。

まず、それまで関係がないと思われたところと繋がってくることを経験されている。元々の専門は食品加工だったが、そこからプラスティックの研究者に変容して行ったようだ。その過程で重要だったのがコンポスト化(composting;堆肥化)であった。コンポスト化とは、人の手によって堆肥化生物にとって有意な環境を整え、堆肥化生物が有機物(主に動物の排泄物、生ゴミ、汚泥)を分解し、堆肥を作ることで、持続可能な開発目標(SDGs)にも関係している。

プラスティックには熱可塑性樹脂(加熱すると軟化する)と熱硬化性樹脂(加熱により硬化する)があり、身の回りに溢れている。その処理が一つの大きなテーマであった。もう一つのキーワードとして、バイオマスが挙げられた。これは、特定の時点において特定の空間に存在する生物(バイオ)の量を物質(マス)の量として表現したものである。認証制度もいろいろできているようだが、その問題点も指摘された。それから、コンポスト化で遭遇した諸問題についての紹介があった。

この発表については残念ながら、ディスカッションの時間を取ることができなかった。それを補う意味で、次回にディスカッション・セッションを設けることにしたい。改めてポイントを指摘していただき、活発な議論が展開することを願っている。


次回のFPSSは、2024年3月9日(土)に開催する予定です。
来年もよろしくお願いいたします。




(まとめ:2023年11月17日)




参加者からのコメント


● 本日は、第9回FPSSの機会を設けていただきありがとうございました。いろいろ、参考になりました。

コリンズの「専門知を再考する」がとくに興味深いものでした。私は、知識そのものが、社会的意思決定と直接つながる時代は終わったと見ています。基本的に、「知識が個人の自由な選択のために使える条件」を整えることが、当該の知識の内容の妥当性とともに、問題となるべき時代になったと思っています。

現代でも、形式的には、知識は個人の選択の自由のためにありますが、事実上、そこには、本来の意味で「自由」は存在しません。原発問題にしても、ワクチン問題にしても、我々が気がついたときには、始まっていた、というのが現実です。現代において、知識は、意図的か否かは別として、必ず何らかの操作性を帯びています。

これを回避するために、知識は、当該知識の知識社会学的な分析と一体で提示されるのが理想ですが、原理的にそれは難しいので、知識の操作性が抑制できないのだと思います。たとえば、当該知識が、物事を進める統治権力の代行として「機能」しているのか、原発被害者やワクチン被害者の救済として「機能」しているのか、見極めるために、知識社会学的分析は必須です。これは、「知識の機能性の問題」です。

さらに、民主主義は単独で存在していません。必ず、資本主義とセットです。物事を進める統治権力は、業界票や献金、あるいは、諸々の国の専門委員会を通じて、産業界から強い規定性を受けています。この規定性が、統治権力が採用する知識の「使い方」をゆがませています。たとえば、原発推進政策において、数学の確率論が、原発のシビアアクシデントが現実的に起こりえないことの根拠とされました。

また、民主主義は、一国で完結していません。日本の場合、必ず、日米同盟あるいは西側同盟国との軍事・経済同盟の大枠があり、産業界による規定性以外に、統治権力が民意を反映しにくい要因の一つとなっています。こうした国際関係の大枠も、統治権力が採用する知識の「使い方」に大きな影響を与えています。これらは、「統治権力による知識の使い方」の問題です。

社会において、知識が問題となる場合、第一義的には、知識の内容の妥当性が問題となります。しかし、知識の機能性(だれの、何のために機能しているのか)や使い方(たとえば、恣意的な時間区分や空間区分など)は、あとから、問題にされることが多く(場合によっては、後からわかることもあります)、こうした知識社会学的な知見が提供されるまでにタイムラグがあります。提供された時には、社会には、別の新しい問題が起きており、古い問題解決は注目されないので、こうした知識社会学的な知見が、制度設計や政策になかなか反映されない、という現実があると思います。

こうした広い意味での知識批判は、主に社会学者やジャーナリストの仕事ですが、知識の生産者である科学者(社会科学者も含む)と知識の消費者である市民も、この作業に参加することで、「知識の知識」の重要性が社会的に認知されてゆくのではないでしょうか。


● 意義深いお話、ありがとうございました。 次回の講座も楽しみにしてます。


● 昨日は、大変有意義なサイファイ・フォーラムに参加させて頂き感謝申し上げます。日頃、科学的また哲学の話などする相手もおらず、けれども、あの場では私の意見を話させて頂き、矢倉先生と皆さまとデスカッションが出来たのは大変ありがたい貴重な時間でした。自分の意見がドクサだろうか?とも思いつつ、哲学には生きる為に不可欠な永続的で根源的な力が内在している―このことばに、大いに納得しました。再び感謝です。


● 昨日はFPSSの議論に参加させていただきありがとうございました。

矢倉先生の今回のヘラクレイトスとパルメニデスの話は、私にとって特に印象的でした。脳科学も何もない紀元前6世紀に人類はすでにthe sensibleとthe intelligibleがあることに気づいていたという事実にとても驚かされました。プラトンの真理の探求は一種のパッションで狂気であるという言葉が印象に残ります。そして、哲学は、知と無知の間に宙ぶらりんにされ、永遠に知へ向かうことを運命づけるという言葉も。

牟田氏の「専門知は市民社会にどう有用なのか」というテーマは、科学者が科学の専門知をどのように捉え、それをどのように社会に説明していくかという意識の変容と倫理感が求められているということだと思いました。

木村氏の「日本のテクノロジーには哲学がなかったのか、置き忘れたのか」は、ご自身の研究生活を振り返り、日本の科学行政の先見性と一貫性のなさを指摘され、その環境が生む諸々の非合理性と研究を遂行するために研究者として立ち位置を不本意ながら換えざるをえない局面もあり、その矛盾と対峙し、それでも研究者としての哲学と倫理観を失いたくないとの矜持が研究を支えてきた、という人間味あふれるお話でした。議論の時間が少なくなってしまい残念でした。

人が人であるということはいかなることであるかという点で、今回の三つの話題はすべてにつながっているように思われました。


● 久しぶりの参加でした。参加受け入れありがとうございました。

大学では哲学を専攻しましたが卒論のテーマを決めることができず、大学院をあきらめてサラリーマンの道を選び、無事定年を迎えてあらためて哲学を勉強している状況です。

学生時代には、哲学は学問の基礎ですべてが統一的に見通せる学問であるとの思いで勉強を始めましたが、私自身の哲学的な問題意識を特定できず、さらに職業として哲学を選ぶというのはかなりリスキーではないかという周りからの助言に素直に従いました。定年後時間と生計の安定を得て、今は意識の赴くままに「哲学」しています。

学生時代の哲学的な問題意識はノートに書き留めておいたので順次答えを見つけています。問題意識の根幹はどちらかといえば科学哲学(科哲)になるかもしれません。明晰な真理、簡明な真理に憧れますね。特に「直観」という論理を超えた認識形態に興味があります。それとギリシャの自然科学(哲学)の思想ですね。ヘラクレイトス、パルメニデスなど先生の口述は大変参考になりました。

先生の活動はメール等から拝承しておりますが、実に精力的かつ知的な活動をなさっており、何かある熱情(passionというよりardeur)をお持ちで、おそらくそれが先生のいう哲学的な生き方を実践されているのではないかと思います。渡仏する前あたりでは科学者として哲学を考えておられたような気がしますが、今はもう哲学者として科学を俯瞰されているような気がします。これが私の直観です。

また出席させていただきたく存じます。
よろしくお願いいたします。


● 科学知だけでは解決困難な社会課題と向き合う市民活動の場において、「専門知とは何か?」「その有用性とは?」というテーマで、多様な分野の専門家の方々、また深い知識をお持ちの方々、このような内容に興味を示してくださった皆さまが、私のつたない発表を受けてくださり、対話という形で展開くださったことに心より感謝申し上げます。私自身、当日皆さまからいただいた対話内容を噛みしめながら、新たな心持にて、科学哲学、社会科学に関する学びを深め、サイエンスコミュニケーションに寄与する研究を深めて参りたいと思います。矢倉先生、そして皆さま、有意義な時間をありがとうございました。


● サイファイ・フォーラムFPSSに参加させていただき、ありがとうございました。牟田由喜子さんの「専門知は市民社会にどのように有用なのか」にコメントさせていただきます。

私は原子力発電所の設計を行う会社に勤めたことがあります。原発にとって、炉心の冷却は最重要課題です。福島原発の事故時、東電の吉田昌郎所長は炉心への海水注入を始めました。ところが、東電本社の経営陣や政府の人間は原子力発電所の十分な知識もないのに、海水注入をやめさせようとしました。しかし、吉田所長は海水注入を続けて日本を救いました。その顛末は以下のようらしいです。

『官邸の意向として海水注入の中止命令が来たので、官邸に詰めていた東電の武黒一郎フェローから、「いますぐ止めろ」と吉田さんに命令がきた。しかし、吉田さんは「なに言ってるんですか! 止められません!」と言って、海水注入の中止命令を敢然と拒否したようです。吉田さんは、今度は東電本店からも中止命令が来ることを予想し、あらかじめ担当の班長のところに行って、「いいか、これから海水注入の中止命令が本店から来るかもしれない。俺がお前にテレビ会議の中では海水注入中止を言うが、その命令は聞く必要はない。そのまま注入を続けろ。いいな」と言ったようです。案の定、本店から直後に海水注入の中止命令が来る。だが、この吉田さんの機転によって、原子炉の唯一の冷却手段だった海水注入は続行された。』

もし、海水注入が中断されていたら、福島原発は大爆発を起こし、東北地方と関東地方は深刻な放射能汚染地域となり、日本の国は大変なことになっていたと思います。吉田所長が自身の専門知に従い、断固とした態度で海水注入を続けたことが被害を最小限に留め、日本を救ったといえます。専門知は「一隅を照らす」ということかもしれませんが、非常に大切だと思います。



● 講演1では、世界は①流転・変遷(ヘラクレイトス)か、②不動・普遍か(パルメニデス)と言う、古代ギリシア思想での2つの大きな問いが示された。現在なら、①地球上の物質循環や宇宙膨張、②物理法則が当てはまると考える。世界を観る視点として、古代ギリシア哲学者が遺してくれた、この複眼を活かしていきたいと思う。 
 講演3では(※講演2についての記載が多いため先述)、有機資源利用や廃プラスチック処理などの環境政策において、科学的視点と政策遂行(ともすれば取組ありきの環境○○マーク等)との狭間の中で、研究者としての矜持を保とうとする、率直な研究人生談を聴くことができて有意義だった。


1.貢献型専門知の知識構造
 講演2では、各種専門知を分類した「専門知の周期表」が興味深かった。この専門知の深さの降順(①が最も専門的)で示すと、次のようになる。

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①貢献型専門知:専門知を生み出す、熟練した専門学者レベル
②対話型専門知:専門学者と対話ができるレベル
③一次資料知識:文献によって得られる専門知。但し、文献選択が適切だったかの問題は残る。
④通俗的理解:マスメディアや一般向けの本などから得られる情報。但し、科学の議題において、正しい判断が行えない可能性がある。
⑤ビアマット知識:国語辞典レベルの知識
⑥偏在専門知:社会構成員が社会生活で持っている必要のある知識

*****

 ①は学会発表レベルであり、知識・推論・実験技能・経験の点で、他者の代替は難しい。その周辺者としてできる範囲は、主に研究支援である。では、代替が難しい「貢献的専門知」の内容として、どのようなものがあるであろうか? その知識構造を把握することは、それと社会を繋ぐ「対話型専門知」の実践手法に援用していく上で有益と考える。その知識構造として、次の4つがあると考える。
[1]専門知識の量とその体系的理解
[2]専門業界人としての知識:文献の探索手段とその概要の把握、当該分野での専門家のネットワー ーク
[3]仮説・思索試行の「型」の開発・実践や、実験立案能力の高さと言った技能的な知
[4]経験的な暗黙知
 例えば、専門病院の医師で多数の症例に接して、この症例は何を検査して どう処置すれば良いなど、相場的な経験知が蓄積されていることなどが挙げられる。

*****

 これら4つのうち、[1]・[2]は文章・数式等で可視化しやすいが、[3]・[4]はその可視化が難しい。しかし、近年、医師の診断過程を医療診断AIツールで再現するなどの取組が行われている[3]・[4] についても、茶道の「型」のように、その内容の「道理」がある程度、可視化できると考える。例えば、症例では、「原則 :〇〇の症状⇒□□症 、例外:△△症 、無症状の場合は××の検査 。これらの医学・生化学的原理として~~」と言った 、「原則・例外・無症状の場合の対処手段 、医学・生化学的原理」との知識構造の組み合わせで構築できると考える。
 そして、これらの解明から、前述の援用を図っていく必要があると考える。
2.「ソフィスの8つの試金石 (灯火)」の提案
 この①の貢献型専門知に対し②の対話型専門知は、①と社会を結ぶ上で重要であり、その知識を携える者が科学コミュニケーション活動をしていく必要がある。この点、当方の考えとして、感染症対策の場面など、①・②に基づく情報発信や社会提言として、次の8つのことが必要と考える。

*****

1)科学原理・理論に基づく主な根拠の提示

 科学的議論では、科学的に解明されていないことや科学的に不確実なこともあるが、科学原理・理論に基づき、「ある条件ではこのような結果になる」と示せることもあり、後者を明らかにした上で、前者の対応を考えていくことが順当である。後者の例として、本会で参加者から話題に出された、原子炉の経年劣化では、放射線の発生量、力学に基づく運動量、炉金属の強度により、劣化のある程度の進行予測が可能と考える。また、コロナ感染症の専門家会議では、記者会見での提言発表の場面ばかり注目を浴びるところ、提言の前提として 、根拠データ・知見の地道な収集活動があり、これら根拠に社会の目が向けられることが少ない との課題が講演で出された(参考)。膨大な根拠データ・知見を丸ごと社会構成員が理解せよとするのは現実的ではないことから、「(1)科学原理・理論⇒(2)根拠データ・知見の要旨⇒(3)科学的に予想される結果と提言」との粗筋を示し、社会や政治としても(3)ばかりではなく、(1)(2) に目を向けて科学・政策議論をしていく必要があると考える。この「(1)(2)(3)」は、法律解釈における「(1)大前提:条文⇒(立法趣旨に基づく解釈)(2)要件事実⇒(3)法律効果」と同じ知識構造であり、法律の世界で当たり前に行われていることを、「対話型専門知」の世界 (科学コミュニケーションの場面)でも、当たり前に実践し、社会における「一次資料知識」の充実に資するようにしていく必要がある。

(参 考)

コロナとの闘いを振り返って20231013()

1100日間の葛藤 新型コロナ・パンデミック、専門家たちの記録」日経BP

 講演内容の基となる本


2)実験・考察の主な条件の提示

 科学的知識を生産する実験・考察では、必ずある条件があり、対象・時間的・空間的に無 限定と言うことはない。例えば、ある化学成分の効果・影響が、試験管レベルなのか生体レベル (実験動物~ヒト)なのかと言うことが挙げられる。

 最近、パイナップルの酵素"プロメライン"が食品機能成分として効用があることやコロナウィルスの活性抑制作用があることを提示するサイトが見受けられる (参考)。その表現内容からある程度の医学的根拠があるものと推察するが、実験・考察の主な条件の提示をした上での主張が必要と考える。

(参 考)

パイナップルの機能食品性について述べているサイトの例

https://www.5aday.net/v350f200/doko/seiri2_m.html


3)議論の対象とする時間的・空間的範囲の明示

 本会で参加者から、地球温暖化を唱える学者に対し、それに反対する学者がいるとの話が あった。地球温暖化と言っても、その間に氷河期の繰り返しのある数十万年スケールの話か、産業革命以降の話か、時間スケールを定めないことには議論が噛み合わない。後者の学者に産業革命以降の地球レベルでの気温上昇のグラフを見せたら、何と言うのであろうか?


4)定量的表現とその計算道筋の明示

 前述の1)(参考)の講演で講演者から、最近 、コロナウィルスの致死率が下がっているが、高齢者の死者の絶対数は、感染の波ごとに、むしろ増加しているとのグラフが示された。致死率と言う割合である以上 、「[分子=死者]/[分母=感染者] 」で計算されるものであり、感染者が増えていれば、致死率が下がっていても、分子の死者は増えている場合があり得ることであり、最近の日本の傾向は残念ながら、このようになっていると説明があった。
 数字や「致死率が下がっているから安全だ」と言うイメージの一人歩きを避けるため、定量的表現での計算道筋の明示や分子・分母のグラフ化が必要と考える。もちろん 、全国の総数や致死率に加え、3)で述べたこととして世代別の致死率の提示も有益である。


5)グラフ・図表化

 グラフ・図表化は 、対象の推移・変遷を視覚的・大局的に把握し、前述の数字やイメージの一人歩きを避ける手段として有益である。


6)科学原理・理論に基づく適切な比喩の使用

 専門用語は、科学的な表現対象を一言で表現できる便利さがあるが、理解が専門家に限られたり、社会一般に不適切に伝わったりする可能性がある。ついては 、科学原理・理論に基づ いた適切な比喩の使用が、「対話型専門知」の世界 (科学コミュニケーション)の場面で必要と考える。


7)日常から対象スケールの適切な還元

 ウィルスから宇宙レベルまで、科学的内容は、空間的・時間的に日常スケールを逸脱して 、専門家でなければ体感的に理解し難い場合が多い。そこで、「マスクの大きさを25mプールの大きさに拡大したら、コロナウィルスの大きさはどれくらいになるか?」など、社会一般が日常スケールで理解できるスケールに表現対象を翻訳していくことが有益である。その点、東京大学医学部付属「健康と医学の博物館」の図録(参考)では、氷の結晶を基準に細菌・ウィルスの大きさを図解的に示していて秀逸である。

(参考)
「感染症への挑戦」p.2~5


8)デュアルユース思考とそれに基づく科学コミュニケーション

 科学技術は有用性と副作用、平和利用と戦争利用などメリット・デメリット、功罪を併せ 持つ場合が多い。デュアルユース思考(参考)はこの両面を対象にして考察していくものであ る。前述の1)~7)全てにおいて、このデュアルユース思考を意識して実践していかないと、かえって「対話型専門知」の世界(科学コミュニケーションの場面)で有害となる場合がある。例えば、5)グラフ・図表化において、「〇〇機能性食品」について実験期間・効果の軸の範囲をわざと限定して、その健康効果が大きいように見せかけることなどが挙げられる。

(参考)

「デュアルユースと社会とわたし」11月19日(日) 開催WS
主催:ReDURCプロジェクト:Re(再考)-Dual Use Research of Concern(社会的観点から使途に懸念が生じ得る科学技術を用いた研究)

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 以上8項目は、知を愛する哲学者 (フィロソフィア)の思考を現代的に試行する上で試金石になるものと考える。そして、本会参加者から話された「専門知は一隅を照らす」に倣い、「ソフィスの8つの試金石 (灯火)」と命名し、「貢献的専門知」の内容とともに、今後その実践に向けた思索・考察を進めたい。


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