6-FPSS




第6回サイファイ・フォーラムFPSSのご案内



日 時: 2019年11月9日(土)13:40~16:30

 会 場: 日仏会館5F 501会議室
(これまでの会場と違いますのでご注意ください)



参加費: 一般 1,000円、学生 無料
(飲み物は各自ご持参ください) 


プログラム

(1)13:40-13:45 矢倉英隆:イントロダクション

(2)13:45-14:10 武田 靖:科学と技術の本質的な違いについて―実践者の立場から
    14:10-14:55 ディスカッション

(3)14:55-15:20 武田克彦:神経心理学における意識について
    15:20-16:05 ディスカッション

(4)16:05-16:30 総合討論

(5)16:45-   懇親会


要 旨

(1)武田 靖:科学と技術の本質的な違いについて ― 実践者の立場から

 日本では科学技術とまとめて呼ばれているが、本来は全く異なる出自と内容で、その混同が多くの社会的問題を発生していることはあまり認識されていない。村上陽一郎はその違いを端的に「クライアントのいるのが技術、いないのが科学」と述べている。科学は16-17世紀にコペルニクス、ガリレイ、ニュートン達の活動から生まれたというのが近代科学の発祥である。技術はそれ以前の人間活動として始まった時からあるもので、科学は技術から分岐した文明・文化である。そしてそれが技術=Techniqueを技術=Technologyへと進化させた。しかしその違いは本質的で、本質・特性・方法論・評価法・観点立点・必要な資質・進化・教育・動機・目標・有益性・姿勢などなど多くの点で固有の差異があり、それらを実践者の立場として解説する。

 科学と技術は約200年前にアメリカに移入されたが、その主目的が軍事であったために、文化としての科学を受け入れる余裕はなく、峻別はなされないままEngineeringとして発展した。その結果、どちらもScienceとしてまとめられ、Pure Science, Applied Scienceと呼ばれて扱われている。日本では、開国後の富国強兵のために。科学よりも技術に重点が置かれて移入されたが、第二次大戦後にGHQによって学術会議が設置されて、アメリカ・New Dealer風の施策がとられてきた。これらの欧・米・日の間での科学・技術のとらえ方の差異についても議論の材料を提示する。

参考資料: 発表スライド


(2)武田克彦:神経心理学からみた意識について

 意識には3つのレベルがある。周囲の環境に気づく、痛みに反応するなどの覚醒のレベル。自分の右下肢が麻痺しているなどの病態に気づくというアウェアネスのレベル。さらに自分が自分であるという意識、セルフアウェアネスというレベルがある。神経心理学は、人間の経験することと脳との関係を解明する領域である。この領域は、人工知能などの脳のソフトウエアを研究する領域と、解剖学などのハードウエアを解析する領域との中間に基盤を持つ。意識の研究に、神経心理学は直接的に関わることができると筆者は考えている。

 最初に脳梁と意識について触れる。大脳は左右の半球に分かれるが、それらを脳梁が結んでいる。脳梁離断の研究から、その2つの半球がそれぞれに意識を持つといわれている。次に記憶と意識について述べる。新しいことが覚えられない(前向性健忘)が、他の能力(知能など)は保たれている健忘症の患者HMの検討からわかったことを述べる。それまでの記憶(障害)に対する見方はHMの研究によって大幅に変わった。最後に盲視(blindsight)について述べる。ヒトの一次視覚野が損傷を受けると、損傷された大脳半球と反対側の視野が見えなくなる。盲視(blindsight)とは奇妙な言葉であるが、盲であるはずの視野内においてある視覚機能が残存することがある。だが、患者はそのことに対して自覚的なアウェアネスがないことを指す。

参考資料: 発表スライド


*************************

これらの話題に興味をお持ちの方の参加をお待ちしております。
 よろしくお願いいたします。

(2019年11月1日)



会のまとめ



今回は、「科学と技術の関係」と「神経心理学における意識」という二つの話題が議論された。以下に簡単に纏めてみたい。

(1)武田 靖: 科学と技術の本質的な違いについて ― 実践者の立場から

武田靖氏の発表は、アメリカやドイツでは別々に並べられている科学と技術を一緒くたに「科学技術」と呼ぶことに異議を申し立て、両者の関係を再考するものであった。最近、科学(Science)、技術(Technology)、工学(Engineering)という三つの領域が議論されているが、ヨーロッパでは工学はなく、アメリカでは技術はないという特徴があるという。畑村洋一郎氏によると、技術は「他人との関連でものを作ること」とされている。科学を考える時、コペルニクス、ガリレオ・ガリレイ、ニュートンによって確立されたとする近代科学と古代ギリシアの科学を分けて考える必要がある。両者の間に断裂があるとする考え方である。近代科学の発生は科学のスポンサーだったキリスト教会の影響(正確な暦を求めるなど)があるとの見方が提示された。テクニック(Technique)は経験に基づくもので見習い制度などのコピーによって伝えられるが、それに知識や論理的な考察(Logos)が加わり技術(Technology)となった。

科学と技術の違いについて、村上陽一郎氏の「科学にクライアントはいないが、技術にはクライアントがいる」という定義を用いて議論されていたが、この点については疑義が出された。科学にクライアントがいないというのは現実を反映しているのか、実はクライアント(評価者、政策決定者など)の存在が科学の営みを決めているのではないかという疑問である。さらに、両者の違いについて次のような点が指摘された。

● 本質: 科学(科を学ぶ)が対象を限定してそこにあるものの特性を研究することに対して、技術は対象を限定せず、何かを実現するという違いがある。
● 特性: 科学が現象や構造の本質を求め、大きな幹を探すのに対して、技術は細部に拘って物を実現する。
● 方法: 科学が説明するために仮説を用いて検証するが、技術は実現のための条件が問題になり、そこでは想定や近似が使われる。科学が仮説を選ぶという点で主観的であり、技術はクライアントがいるので客観的であるという。
● 評価: 科学が法則を求め、絶対評価に依存しているのに対して、技術はクライアントの要求が満たされれば良しとする点で相対評価だという。科学が絶対評価に依存しているとする見方に対して、科学が出す結果は時の学会が評価するもので将来変わり得るものという認識がなければならないという異論が出されていた。
● 教育: 科学は大学で行われ「なぜ?」が問われるが、技術は「もの作り」を目的にして工業専門学校で行われる。
● 動機と目的: 科学は「知りたい」という動機があり、その理由は必要ないのに対し、技術は「実現したい」という動機で、製品を作り上げたという時点で達成感がある。科学には終わりがなく、日本で言う「道」に相当するという。

ここで出されている特徴が科学と技術を明確に分けるかどうか、現在行われている科学を振り返ると技術の特徴とされるものが科学の中でも見られるものがあり、両者の境界はぼやけているのではないかという印象を持った。ただ、科学者(理学系)と技術者(工学系)が両者をどのように見ているのかという対比は興味深いものがあった。便利を求める技術者を科学者は浅薄だと見る傾向があり、単純に向かう科学者に対して技術者はそれで現実の問題に答えられるのかと問うという。

これまでに見たような違いがある理学系と工学系の研究者は本質的に相容れないところがあるので、両者は役割分担をしなければならない。企業においては、科学者は「想定」(条件の設定)をし、それに合わせて技術者が開発、設計、製作を試み、経営者がその是非を決定するという構造になっている。東電の福島第一原発事故は、科学者が想定を出し、技術者がそれに対応する策を提示していたにもかかわらず、経営者がそれを採択しなかったというところに本質があると武田氏は見ていた。

最後に、科学があって技術が生まれるのではなく、科学は技術から生まれたとの見方が出され、これまで言われた「必要は発明の母」ではなく、「発明が必要の母」の時代に入っているとのお話が出ていた。これは適切な対比かどうか分からないが、帰りの電車の中で見た広告動画に、ある女優の奇抜な踊りが出ていたが、これは最初に公告のコンセプトがあってその女優が選ばれたというよりは、その女優の個性が先にあってできた企画ではないかという考えが浮かんだ時、上の逆転の話を思い出した。

追加の議論の中で、組立ラインモデル(Assembly Line Model)の紹介があった。アメリカでは純粋科学と応用科学の分野に対する投資が4対1で、その背後には、科学が技術を生み出すので、前者に多くの投資をすればそこから生み出されるものも増えるという哲学があり、それが組立ラインモデルになる。しかし、「自由な知識人による自由な探求」が新しい技術を齎すという考えには疑義が出されているという。昨年ノーベル賞を受賞された本庶佑博士の「研究・開発の本当の”死の谷”は基礎研究の衰退である」というテーゼは組み立てラインモデルに基づくもので、武田氏は批判的に見ていた。寧ろ、クライアントのいる基礎研究にしなければお金がいくらあっても足りないとの見方を提示されていた。この点に関する質疑応答では、このままでは純粋科学者が絶滅危惧種になるとの危惧が出されていた。さらに、仮説演繹法を用いるこれまでの科学とは異なり、最初にデータを集めてから解析をするという、ある意味では考える必要がなくなった科学者がこれからの科学者(技術者に近い?)になる可能性があることもその危惧に拍車をかけているのだろうか。

日本では文科省が科学と技術を分けることに抵抗を示しているという。この発表を聴いた後に政府の姿勢を見直すと、そこには科学と技術を一体のものにして国に役立つ営みにしたいという意図が見えるようである。これは日本に限ったことではなく、国家というものに内包された性質なのかもしれない。

参考文献

Agazzi, E. From technique to technology. The role of modern science. Philosophy and Technology 4: 1-9, 1998
Poser, H. On structural differences between science and engineering. Philosophy and Technology 4: 81-93, 1998 
Sarewitz, D. Saving science. The New Atlantis 49: 4-40, 2016


(2)武田克彦:神経心理学からみた意識について

武田克彦氏の発表は、神経心理学で扱われるいろいろな障害の中で3つの例を挙げて意識について考察し、最後に神経心理学は科学の名に値するのかという問いを検討するものであった。意識についての定義に入ると大変なのでそこには立ち入らず、人間の意識には覚醒、アウェアネス、自己意識(セルフ・アウェアネス)の3層があり、その順番で高次のレベルに進むものと了解して話を進めていた。今回は一番下に位置する覚醒(脳幹網様体賦活系によっている)については触れていない。対象となった症例は、(A)脳梁切断による分離脳の患者、(B)てんかん治療のための両側側頭葉内側手術を受けた患者(HM)および単純ヘルペス脳炎によって器質的に障害された患者(Clive Wearing)、(C)盲視(blindsight)の患者(DB)の3群である。それぞれについて簡単にまとめたい。
 
(A)分離脳患者
重度のてんかん治療のために、脳梁と呼ばれる左右の大脳半球を結ぶ神経線維束を切断した分離脳患者は左右の大脳半球の連絡がないので、それぞれの半球の機能を別々に調べることができる。瞬間的に視覚刺激を与えるタキストスコープによる解析から、次のことが分かった。右の視野から刺激(文字)が入った場合、それが何かを言うことができるが、左の視野から入った文字についてはそれが何かを言うことができない。左から入った情報は右脳に伝わるが、言語(特に発語)を担っている場は左脳にあるとされるからである。ただ、左視野にある物体を左手で掴んだり、認知したりすることはできることから、左手を支配している右脳が何らかの情報処理をしていることが示唆される。さらに、ロジャー・スペリーらは、分離脳患者の各脳半球にいろいろな写真を示して認識できるかどうかの実験を行った。その結果、右半球は自分の顔だけではなく、自分の見慣れたもの、馴染みの景色、さらに歴史的人物などを認識できることが明らかになった。また、自己認識能を検討する方法とされるゴードン・ギャラップミラーテストを用いて調べたところ、右脳にも自己認識能があるが分かり、それまでは否定的に見られていた右半球にも意識があるとの結論に達した。スペリーの学生から共同研究者になったマイケル・ガザニガは、なぜあることをしたのかという解釈に関するアウェアネスや人生の物語を紡ぎ出す能力は左脳にしかないと考えているという。いずれにせよ、分離脳の研究は左右の脳半球には別の意識があることを示しているように見える。ただ、患者自身は意識が分かれているという感覚を持たずに生活しているようである。

(B)記憶障害患者
2人の患者を例に採り、記憶の問題について考察された。

(a)患者HM
10歳の頃からてんかんを発症。薬でのコントロールが難しくなり、27歳の時(1953年)両側側頭葉内側の切除術を受け、発作は減少した。しかしその後、理解はできるが新しいことを覚えられないという症状が現れ、術前のことも思い出せなくなる。側頭葉内側には記憶に関係する海馬が存在する。興味深いことに、技術の習得(鏡に映った像を描写するなど)に関しては、それをやったとは答えられないが、技術は習得されていることが分かった。つまり、HMにおいては事実やエピソードを覚える記憶(陳述記憶)とやり方やルールを覚える記憶(手続き的記憶、非陳述記憶)との間に乖離が認められ、記憶障害には様々な形態があることが明らかになった。HMに関しては、スザンヌ・コーキン著 『ぼくは物覚えが悪い: 健忘症患者H・Mの生涯』(早川書房、2014)にも紹介されている。

(b)患者Clive Wearing
 著名な音楽家であったクライブ・ウェアリング(1938- )は、充実したキャリアの只中にあった40代後半に単純ヘルペスウイルスによる脳炎に罹り、それ以降、記憶を失うことになった。脳の病変は、両側の海馬体、扁桃体、側頭極、左の下側頭回、島などに認められた。会話や音楽の能力はかなり保たれていたが、常に「今目覚めたばかり」という感覚の中にいたようである。これは、彼の記憶の持続時間が非常に短かったことによる(数秒~数十秒単位だったと言われている)。意識障害はないが、記憶の持続時間が短いために、連続する意識経験が重度に障害されていると結論される。クライブについては、妻のデボラ・ウェアリングさんが『七秒しか記憶がもたない男』(武田ランダムハウスジャパン、2009)で紹介している。これは個人的な記憶になるが、12年ほど前に見たドキュメンタリーでクライブが語っていた言葉が強い印象を残した。それは「意識がない。朝も夜もない。夢も見ない。死と同じだ」というもので、人間の生における記憶の意味を突き付けられる経験となった。

(C)盲視患者DB
 盲視とは、見えないと自覚している視野欠損部(一次視覚野: V1)に視覚刺激をした時に、それを識別できること(seeing without knowing)を指す。右脳のV1を切除したため左視野の一部が見えなくなった患者DBを検討した。その結果、見えないはずの視野に提示された刺激が何なのかを推測してもらったところ、刺激が明確な場合、位置、線の傾き、〇×を判別できることが分かった。検査後、DBは「何も見えなかったが、そのような感じがした、推量しただけだ」と答えたという。このことは、意識された視覚の他に無意識的視覚があること、意識レベルで知覚されない刺激でも意識に上らないレベルでは処理されていることを示唆している。メカニズムとして、V1を介さない、網膜の視覚情報が中脳上丘を通って視床枕核に至るバイパス、あるいは網膜から視覚枕核に入り視覚連合野に至るバイパスが考えられている。V1で見たというアウェアネスが生じるとされてきたが、V1以外にこのための経路があることを示唆している。セミール・ゼキは、色、形、動きなどは異なる皮質領域で処理されているとの仮説を提唱しているが、その証拠として盲視を挙げている。

(D)神経心理学は科学か?
最後に、病気や事故などで脳が損傷された時に生じる神経心理学的症状(言語、行為、認知、思考、記憶、注意などの障害)を研究する神経心理学が科学と言えるのかという問いを検討していた。武田氏による科学の基準は、① 観察対象が明確である、② 実験や観察で得られたデータを議論できる、③ 方法が客観的で、追試が可能である、④ 仮説は検証されて初めて認められる、⑤ 間違いは正しく訂正される、であった。この基準の①に関しては、記憶や意識の定義を正確にできるのかという問題があるが、神経心理学では一応の定義を持っているという。③の再検が可能であることに関しては、神経心理学の症例でそれが可能なのか、また④に関しては、神経心理学に「仮説演繹法」を適用できるのかという疑問が可能だろう。武田氏の考え方では不十分かもしれないけれどもそれは可能だと見ていた。質疑応答で指摘されていた最近の科学の一つの特徴は、仮説なしに大量のデータを集めてから解析するというところがあり、科学の性質が変わっているように見えるので、基本的には科学の定義によって評価が変わってくるのではないだろうか。

 
参加者からのコメント


● 「科学技術」ということばに何の疑問も持たず使っていましたが、武田靖先生のお話、本来「科学」と「技術」は出自が異なる、動機も目標も必要な資質も異なる、また「科学の終焉」という危機感を伺い興味深かったです。また、「科学的」ということばを「信じていいですよ」という言葉と同義語のように使ってきましたが、自分の単純思考にも気づきました。武田克彦先生の神経心理学のお話は、大脳半球が脳梁の切断により左右分離してしまった患者さんの事例、両側側頭葉内側切除した患者さんの事例を伺うことで、記憶と意識という人間にとって根源的なものが、神秘の所産と思えてきました。

● 先日はありがとうございました。2つのテーマでしたが それぞれに活発な討論がなされ、私としてはいろいろな立場の方のご意見を伺うことができて 有意義な会であったと思います。ただ 科学と哲学の問題に関して、できましたら 矢倉先生に毎回 最初にレクチャーを短い時間でもいただけないかと思います。この集まりが続いているのはたいへん良いと思いますが、個々の参加者の問題提起と討論というのはやや単発的ですので、継続性ということも大事ではないかと思います。そういう意味で、出席者がまず矢倉先生から哲学と科学ということの大事なところをシリーズで勉強でき それから個々の参加者の発表を聞き討論もするという形ができるといいのではないかと思った次第です。お考えいただけると幸いです。

● 医学が万能のように言われる患者さんを相手に、わかってないことをどのように伝えられるのか、自分も病気とは何かと考えても、まだまだわからなくて、先生の会に参加させていただきました。他の方との交流をしながら、また考えてみます。来年もよろしくお願いします。

先日はありがとうございました。多くの人達と会話ができて、楽しかったです。全く違う畑の人達と話せるチャンスはめったにないことですので。

● 武田氏の「科学と技術の本質的な違いについて」のご発表は、元工学の実践者としておおむね理解と納得のできる内容でした。Pure ScienceはやがてApplied Scienceに近づいて行かざるを得ないという予想も、そうなるのは必定のように思います。それは、個人の生存と安定という極めて人間的な要因に、国家という枠組みが経済と防御いう側面に光をあて、科学と技術をこの大問題を解決する最適な「道具」として用いているからだと考えます。現代社会は、もっとも人間的な科学と技術への営みが次第に人間らしさを喪失させていくというジレンマに陥っているのではないかという疑問が生じてきます。それではどうすればいいのかという考えは自分一人の頭ではまとまりがつきません。そのヒントを得たいと思い、矢倉先生の主催される集まりに参加させていただいています。 

武田氏の「神経心理学と意識」のご発表は、全くこの分野の知識を持たない私にはとても興味深く、以前よりお伺いしてみたい話題の一つでした。それは自分の知識のなさで、脳や意識の話には何か隔靴掻痒の感があったからです。いくつかの事例について仮説をたてそれを演繹する過程を、具体的に違う分野の人に解るような説明をただき、脳の複雑な情報の処理機構の一端を垣間見ることができました。そして改めて脳の研究はまだ端緒についたところであるという印象を強く受けました。神経心理学は科学かという疑問に対しては、科学は意識をどう解明することができるかという設問に置き換えるとよいと思いました。



フォトギャラリー




 

(2019年11月15日)


新しいフォーラムの形式について

今回、これからの会の形式について、毎回主宰者による話題提供があった方がよいのではないかとの助言をいただきました。他にご意見が届いておりませんので、次回から主宰者の発表の後に、これまで通り2名の方に発表をお願いするという形式でやってみることに致しました。詳細は決まり次第、この場に掲載する予定です。ご理解、ご協力のほど、よろしくお願いいたします。(主宰者)

(2019年12月16日)






1 件のコメント:

  1. 意識の分子レベルの仮説として、ニューラルネットワークのモバイル仮説があります。イェルネの1974年パスツール研究所講演と、1984年ノーベル賞受賞講演にもとづいています。ぜひぜひお読みください


    1.
    http://www.hrpub.org/journals/article_info.php?aid=8259

    An Information Theory of Language (Digital Linguistics)


    2.
    http://www.ijcte.org/index.php?m=content&c=index&a=show&catid=103&id=1510

    Mobile Neural Networking Hypothesis for Complex Concept and Its Logical Structure (Digital Linguistics)

    3.
    A Mobile Hypothesis of Neural Networks for Spinal Reflex and
    Linguistic Processing (Digital Linguistics)

    ARTICLE_INFO: http://www.hrpub.org/journals/article_info.php?aid=7451

    Download Info: http://www.hrpub.org/download/20181030/LLS2-19312091.pdf


    返信削除