5-FPSS




第5回サイファイ・フォーラムFPSSのご案内

 

日 時: 2019年5月18日(土)13:40~16:30

会 場: 日仏会館5階 509会議室




参加費:  一般 1,000円、学生 無料 
(飲み物は各自ご持参ください)




プログラム

(1)13:40-13:45 矢倉英隆: イントロダクション

(2)13:45-14:10 林 洋輔: 「生き方としての哲学」はいま可能か:
   Pierre Hadotの「読むことを学ぶApprendre à Lire」と学問の古典

   14:10-14:50 ディスカッション

(3)14:50-15:15  阿戸 学: 現役科学者にとって哲学することは可能なのか
   
   15:15-15:55 ディスカッション

(4)15:55-16:30 総合討論: 今後の方向性について

(5)16:45-  懇親会


要 旨

(1)林 洋輔: 「生き方としての哲学」はいま可能か:
   Pierre Hadot の「読むことを学ぶ Apprendre à Lire」と学問の古典

 20世紀フランスの哲学者・哲学史家であるピエール・アド(Pierre Hadot: 1922-2010)は主に古代哲学を主要な論拠とし、哲学を「生き方(の実現・実践)」として捉える議論を構想した。当該の議論は欧米の諸研究者より根強い支持を受けているものの、他方ではいわゆる制度学問(アカデミズム)としての哲学研究が諸処で営まれている現在、アドが述べるような「生き方」としての哲学を実践することは果たしてなお可能だろうかとの問いも燻っている。この問いに対しては以下で掲出した論集でも言及されているように、哲学を「読む」ことに着眼して議論の展開を図りたい。というのは、アドの主要な論考『精神の修練 Exercices Spirituels』のなかの「読むことを学ぶ Apprendre à Lire」において彼の議論が未完と呼びうる程度で終息するに留まっており、それを補うかのごとくして諸研究者による論集『古代の教育・近代の教育 Pierre Hadot: l’enseignement des antiques, l’enseignement des modernes』では、哲学における「読む Lire」ことの意味とアドの議論との接続が試みられているからである。本発表ではアドおよび後続研究者の議論を整理検討しつつ、現代における「生き方としての哲学」の実現態として「古典の講読を通じた生き方の形成」にまで議論の一般化を試みることで来場者の批判を仰ぎたい。

参考資料: 発表原稿


(2)阿戸 学: 現役科学者にとって哲学することは可能なのか

 科学者を科学的手法による事象の探求を生業とする者、と定義するのであれば、科学を職業とする者にとって、日々の生活の中で哲学的思考を持つ時間を確保するのは至難の技である。それは科学を職業とする者は、どの研究機関に所属していようと、いかなる労働契約が結ばれていようと、事実上裁量労働制の雇用形態を取り、科学者としての評価は、科学者ギルドにおける科学的方法に基づいた新規性の発見によるためである。この過酷な生存競争(自ら望んで行っているのであるが)で生き延びるため、哲学的思考に必須な、自由に思考を巡らす時間を十分に確保することは不可能と言って良い。
 また、科学的方法による成果は、あくまで作業仮説の証明によるであって、「真実」を発見することではない。従って、科学者は、しばしば自身が発見した新知見が、それが常識から離れた「大発見」であればあるほど、社会においていかなる意味を持つか自分ではわからないという事態が生ずる。これがDual Use問題の本質ではあり、科学者個人に科学倫理・科学者としての行動規範を知識だけではなく、実践として身につけることが社会的に要請されている。
 この困難な問題への解を見出すことが困難ではあるが、いくつかの補助線は利用できると考える。我が国の歴史における同様な問いに対する回答として、鈴木正三の「世法即仏法」と石田梅岩の「尽心知性」をあげて解説を試みたい。

参考資料: 発表スライド




会のまとめ 

第5回サイファイ・フォーラムFPSS、盛会のうちに終わる(2019.5.18)


今回の会には12名の方が参加されたが、新しく参加された方は3名(内2名はスイスと北海道から)で、活発な議論が展開した。貴重な週末にこの会に参加された皆様に改めて感謝いたします。今回提起された2つのテーマは期せずして、現代において哲学を実践することの問題点(困難さ)とその解決に向けた方策についてとなった。一つは、「生き方としての哲学」の実践であり、もう一つは、現役科学者が哲学することについてである。それぞれのポイントを私見を交えながら簡単に纏めてみたい。


(1)「生き方としての哲学」はいま可能か: Pierre Hadot の「読むことを学ぶ Apprendre à Lire」と学問の古典(林 洋輔)

この発表では、ピエール・アドーによる古代哲学に見られた exercices spirituels精神の修練)についての考察と、ヘンリー・デイヴィッド・ソロー(1817-1862)の『ウォールデン』に見られる生き方を重ねて「生き方としての哲学」を論じていた。ソローは「単に難解な思想をいだいたり、学派を築いたりする」のが哲学者ではなく、「ひたすら知恵を愛するがゆえに、智慧の命ずるところに従って、簡素、独立、寛容、信頼の生活を送ること」、そして「人生の諸問題を、理論的にだけではなく、実践的にも解決する」人こそが哲学者であると言っている。アドーは古代哲学の中に、単に特定の道徳的行為ではなく、あらゆる瞬間に実践しなければならないこの世界内に存在する在り方に関するものを見ており、その目的は個人の生の全体を変容させることだと考えていた。アドーは「精神の修練」を自己の変容を齎すための自発的で個人的な実践と捉えていたのである。

そこから「精神の修練」と読書との関連へと議論が進む。読むためには、公平性や客観性をもって著者の深い意図に迫らなければならないという。それは、しばしば見られるように、古いテクストで言われている意味を現代に役立つように変形させることではない。ただ、ハンス・ゲオルク・ガダマー(1900-2002)やレイモン・アロン(1905-1983)のように、主観や感情を排除して読むことは不可能だという立場もある。ガダマーに関しては、「ハンス・ゲオルク・ガダマー、あるいは対話すること、理解すること」という拙エッセイがあるので、参照していただければ幸いである(医学のあゆみ 265 (10): 911-915, 2018)。

真に新しく独創的な本は古い真理を愛するように導くもので、その真理は世代を超えて繰り返し読み返されなければならないとアドーは言う。そして、わたしが重要だと思った言葉が続く。
「我々は最早読むことができなくなっています。つまり、立ち止まり、心配事を解放し、自分自身に還り、細かいことや新しいことを探究することは脇に置いて、静かに瞑想し、反芻し、テクストに語らせるようにすることができなくなっているのです。これは精神の修練ですが、最も難しいものの一つです」
このような読み方が可能になるためには、静かな自由(暇)な時間が必要になるが、それが難しくなっているということだろう。仕事をしているとそのような時間を確保することが難しいことは理解できるが、おそらく不可能ではないだろう。まず、その意義を認識しなければならないのではあるが。わたし自身は人生の後半はそのために準備されていると考えているので、それまで待っても遅いということはないのかもしれない。読書についてもソローの考えが引き合いに出されている。それは、本物の書物を本物の精神で読むことは気高い修練であり、どんな修練よりも厳しい努力を強いるものだという指摘である。さらにソローは、技術を学ぶための読書と「高貴な知的訓練としての読書」を分け、後者こそが唯一の読書だと主張している。

最後に、(i)「修練としての読書」はいま可能か、(ii)古典の世界観を「客観的に理解する」ことは可能か、(iii)いま古典の知恵のもとに生きることは可能か、という問題が提起された。これらの問いに対する答えは、それぞれの人生における季節によって変わってくるように見える。わたしの立場から見れば、修練としての読書は可能であり、そうしたいと思っている。読書における客観性については、原典の意図を深く理解しようとせず、現代に役立つように当て嵌めようとするのは論外だという意味での客観性は確保しながらも、一般的にはガダマーの考え方に近いようである。そして、最後の問いについては肯定的な考えを持っている。

議論の中で、古典を読むことの意義自体を問う意見があった。その真意は、現代の具体的な問題に対する答えを哲学に期待している中、古典に埋もれていてよいのかということだったように思う。と同時に、古典の中にある考え方に救われたという声もあった。個人的には、現代の問題を考える上でも古典は重要な源泉になり得ると考えている。三つの課題に関しては比較的楽観的で、可能か?という問いではなく、如何にして可能にするのか?という問いに変更すべきではないかと考えていることが分かった。皆さんは如何お考えだろうか。


(2)現役科学者にとって哲学することは可能なのか(阿戸 学)

最初に、生物系学問の営みを純粋な学問(サイエンス)と根拠に基づいた実学に分け、前者は理学部生物系が、後者は農学部、医歯薬学部、獣医学部が担当していること、阿戸氏が勤務されている感染研は厚生労働省管轄の研究機関で、国民の健康が目的となる研究をしているが、大学は文部科学省管轄で自由研究を標榜しているという見方が提示された。その上で、サイエンスを伝統的思考(経験、権威、感情に基づく)では証明が難しい事象を実験によって検証、実証するものと定義し、それは真理の発見ではなく、ある条件下における作業仮説を検証できることであり、それ以外ではないとしている。

ここで、マット・マイト博士による「目で見るPh.D.へのガイド」(The Illunstrated Guide to a Ph.D.)を用いて科学者への道と科学における発見の意味するところについての解説があった。最初に現在の知の全体が示され、大学院生は論文を読むなどして知の全体の限界に至るように努力するが、ある日、その限界を超えるような小さな一点が見えるようになり、それを推し進めると博士号に辿り着く。しかし、それはあくまでも知の全体のほんの一点の領域に関することなので、全体を忘れないようにすることが重要であると説明されている。一旦、境界を超える真に新しい領域が見つかると、その枠内では想定可能だが新しい問いが次々に出てくるので熾烈な競争が展開する。その上で、真に新しいものの世界内での意義を知ることは、発見者にとっても難しいと言っている。なぜそうなるのかという意味に関する問いは、現代科学から排除されており、それに答えるためには哲学的思惟が求められる。翻って、現在の科学研究の現状を見ると、過度の競争原理の導入、研究コストの増加と予算縮小、研究以外の業務増加による研究時間の減少などの傾向が増悪しており、研究成果の意義について哲学的思惟を行う時間を取るのは殆ど不可能だという。

議論として出ていたのは科学者と哲学者の関係で、現代では分断されているように見える科学と哲学だが、本来の姿としてこの両者は一体になっていなければならないのではないか、科学者は哲学者でもあるという自覚が必要になるのではないかとの指摘があった。上述のマット博士の図では、個人の専門領域は知の全体から見れば地球上にいる一人の人間程度のものなので、自らの発見をより大きな枠組みに入れて考え直すことが推奨されていた。これは哲学的態度と言ってもよいもので、この視点を忘れなければ科学者も哲学者でいることは可能になるだろう。問題はそのような認識を持てるかどうかにかかっているのではないだろうか。

その他、古代の科学と近代以降の科学との間に断裂はあるのか否かについての議論があった。それから「科学技術」と一語で表現されているのは日本だけで、この両者の間には明確な違いがあるとする立場の人からすると問題があるという指摘があった。今後、科学の歴史に関する問題、科学と技術の関係をどう捉えるべきなのかなどについての突っ込んだ議論が求められるという印象を持った。


★ 総合討論では、フォーラムの今後の方向性について議論した。前回、フォーラムをもう少し開かれた営みにしてはどうかという提案があったからである。具体的には、科学、哲学、技術、歴史などの専門家を招待して話を聞き、議論することになるが、そのことにより我々の知の空間、思索の空間をより豊かなものにしたいという願いがあるからだろう。今回の議論では、お呼びする方の背景について、いろいろなサジェスチョンがあった。例えば、

1)科学と哲学の融合を実践している方
2)生き方としての哲学を研究している方
3)自然科学の領域で重要になる概念(自然、生命など)について研究している方 
4)自然科学の領域(例えば、神経科学)で研究している方
5)医学の哲学(医学概論)について研究している方 
6)科学や哲学を外から見ている方(出版社の編集者など)

それから、将来の方向性として、科学について思索した古今の哲学者の書を講読してはどうかというアイディアも出ていた。候補となる演者については具体的な名前も挙げられていたので、外部から呼ぶかどうかも含めて、これから検討することになるだろう。第6回フォーラムの予定は、決まり次第このサイトに掲載する予定です。よろしくお願いいたします。



参加者からのコメント


● 昨日の会合参加、ありがとうございました。いろいろな意味で、大変参考になりました。自説をもっと広める必要性を痛感しました。秋にでも機会があれば、また参加させていただきます。急に別の会合が入り、懇親会に出られず残念でした。こちらも次回にはぜひ参加したいです。日程等が決まりましたらご連絡いただければ幸いです。どうもありがとうございました。

● ご連絡有難うございます。講師候補として私自身が推薦する方は今ありません。これまでの出席者の皆さんは錚々たるメンバーなので、お一人づつ話を聞きくと当分は楽しめるかなと思っています。ご招待は費用もかかるし、ご無理なさることはないのではと心配になります。草の根運動?はsustainabilityが大事です。消極的な意見ですみません。

● 2つの発表、及び長時間の討論ともにとても有意義で大変勉強になりました。討論の場で「科学者は新たな真理の発見を目指しているのに、哲学者は古典を再解釈することに留まっているのは何故か」という問いが投げかけられました。その場では哲学あるいは哲学者の立場から説得力のある返答がなされなかったように思われました。でも、マルクス、ハイデッガーなどは少なくともその時代における”新たな真理(思想)”を提示したのではないかと思います。科学でも再解釈が高評価を受けることがあります。たとえば本庶佑博士は、ほぼ15年前に発見したPD-1を”再解釈”し抗癌剤に臨床応用したことでノーベル賞受賞者となりました。また、哲学は”古典”が広く重要な参照点となる一方、科学では”古典”に基づいて仮説を立て実験を行うことは殆どありません。以上の違いも哲学で”再解釈”がより多くなる要因かもしれません。哲学の領分は、”真”だけではなく”真・善・美”の追求にあります。最新の科学は”真”の発見で哲学を大きく引き離している一方、”善・美”の領域については依然不得意分野ではないかと思います。”科学の形而上学化”や”生き方としての哲学”を追求する上で、社会学的、文学的・美学的観点(”善・美”の領域)も取り入れていくとより面白くなるのではないかと思いました。

● 5-FPSSでは有意義な討論の場を設定していただき有難うございました。今回の哲学と科学の二つの領域からの話題は科学の形而上学化を考える上でとても参考になりました。哲学の側からの発表では、「生き方としての哲学はいま可能か」というテーマで、人生の諸問題を、理論的にではなく、実践的に解決するためのP.アドーやH.ソローの哲学と思索の方法が紹介されました。科学者が研究を進める上でそして生きて行く上で大変に参考になる考え方と姿勢が示されていました。同時に、哲学研究の現状について、哲学の教授はいても哲学者はいないのではという哲学者自身の問いや、科学者からの、哲学は古い知の解釈の研究で、科学のような新しい知見は生まれてくるのだろうかという疑問も呈されました。

一方、科学者の側からは相対する内容で「現役哲学者にとって哲学することは可能なのか」という発表でした。科学の知の全体像を丸い円に例え、科学者の知りたいという人間の根源的な欲求が、この丸い円の外縁を針で小さく突き破るように外に出て行き、その結果として、科学知が集積されながら輪が外側に拡がっているという概念が示されました。ここでは、科学者の個々の研究は大きな輪のごく小さな点に過ぎないという自覚が必要であること、また、科学の成果がどのように使われて行くかは科学者自身には予見できないなどの問題が挙げられました。科学と技術の違いについても少し議論されました。いま科学者は、とくに若い科学者は、過度な競争や身分の不安定性などで研究に専念し難い厳しい環境にさらされていて、科学の輪を拡げようとする努力がこれによって阻害されている状況である。従って、研究以外に頭を巡らせる時間的、精神的な余裕が持てない実情があることなども紹介されました。

二つの話題に共通する点は、人間の知は「個」によって拡がり、そして真理と事実は世代を越えて繋がっているということです。科学の知の概念が中心から等距離の丸い円で示されていましたが、私は、科学の知は科学知であるがゆえに全体知から見ると丸ではなく歪を持っていて、その歪は増大するというイメージを持っています。科学知は作業仮説の検証の集積であるということです。一方、哲学は人類が長い時間をかけて全ての知を客観的に押し広げようとする努力で、それは現在も続き、これからも必要不可欠な試みであると考えます。以前に、この会にご参加の長老の先生から、個々の人にそれぞれの哲学があってもいいのではないかというご意見がありました。私もこの言葉に同感します。いま哲学者と科学者に共通するテーマは、「それぞれが生き方としての哲学をどう実現していくか」というような気がします。今回の議論を通じた感想です。

今後の方向性についてはいろいろな方式が考えられますが、いずれにしても科学の形而上学化という大きなテーマはすぐに結論がでる性質ではないと思います。一つの案として、当面は、広い分野の専門家の方に声をお掛けして、フォーラムの主旨にご興味や賛同を持って頂ける方に、フォーラムに参加していただく形で話題の提供をお願いし、その議論を通じて科学の形而上学化の考えを深めて行く従来方式の延長が、このフォーラムが持つ自発性という特徴が生かされるのではないかと考えますがいかがでしょうか。貴重な時間をありがとうございました。

● 今回のサイファイ・フォーラムには参加できませんでした。ほとんど出席していないのに何を言うかと思われるかもしれませんが、今回今後の方向性について議論がなされたとのことで、一言意見を申し述べさせていただければと思います。主催者である矢倉先生は、前に私どもの学会に来られて講演されたときSellarsを引用されて、「(哲学の目的は)最も広い意味における『こと』が、どのように最も広い意味において矛盾なく繋がっているのかを理解することである」。そして「哲学に特徴的なことは専門となる対象ではなく、すべての専門領域との関係において『こと』を理解するという目的にある」と述べています。そして「哲学を実践する者には、すべての領域の事象について知ることに努め、その上でそれぞれの間に橋を架けることが求められる。」と矢倉先生は述べています。サイファイ・フォーラムでは、ぜひいろいろな専門家の方のご意見を聞いて、それが例えば自分の領域とどうつながるのかなどを考える場であってほしいというのが私の希望です。外に開かれた、あるいは外部講師を呼ぶということも重要ではあるでしょうが、まず参加される方がそれぞれの専門の事柄(他の参加者の方にもつながるのが望ましいですが)をお話をされて、それを他の参加者が各自自身と関連する問題として捉えることをもう少し続けたらいかがでしょうか。

阿戸学氏のお話から参加させていただき、ありがとうございました。科学者としてのご自身の問題意識の解を、仏教(鎌倉時代の明恵、江戸時代の鈴木正三)や石門心学という切り口からお話いただき、とても面白いと思いました。科学の対象となる「世界」を神の被造物として捉えるか、自然に成るものとしてとらえるのか、思想に違いはあるが、その中で生きる人間がそれぞれ「今」という時間の中で、あるがまま、怠らず、止めず、心を尽くして事に取り組むのだ、という先人の思想は国の東西を超えて共通しているのですね。 



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(2019年5月18日)



主宰者からのコメント


これからの方針についてのご意見、ご助言をいただき、ありがとうございます。それらを考慮に入れて当面の方針を考えておりましたが、次のように進めるのがよいのではないかというところに落ち着いて参りました。

フォーラムの賛同者、あるいはフォーラムの趣旨に賛同して参加された方の中にはまだ発表されていない方がおられます。まず第一に、フォーラムに参加されている方がどのようなことに興味をお持ちなのかを発表していただき、これまでのようにいろいろな角度から議論する中から相互理解を深めることができると考えます。第二には、その過程でこのフォーラムの中心となる問題意識のようなものが浮かび上がってくるように思います。そこまで進むと、自ずからその先の方向性も見えてくるのではないかと想像しております。必要があれば今回の議論を参考にしたり、あるいは改めて議論をしたりしてもよいと思います。当面はこのような方針で歩みたいと考えておりますので、ご理解とご協力をいただければ幸いです。

また、科学を取り巻く古くからの問題、あるいは現代的なテーマについて、幅広いバックグラウンドを持つ人が集まって議論する場は極めて稀であるとのご指摘もいただいております。そのような場であることを再認識して、これからの歩みを進めて参りたいと考えております。皆様の積極的なご支持を今後ともよろしくお願いいたします。

(2019年6月21日)






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